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2013年8月13日火曜日

「うららかな日」

	
  少女はじょうろを手に、小さな花壇へとやって来た。朝の清々しい日射しが、少女の真っ白いブラウスとスカートを輝かせていた。穢れを知らない太陽の光は、やはり穢れを知らない少女をやさしく照らした。空は真っ青で、白く美しい雲がぽかりぽかりと浮かんでいた。
 心地好い陽気にしぜんと洩れるような鼻歌をうたいながら、咲き誇れる花たちに少女は水を与えていった。その姿は踊りでもおどるように軽やかだった。色彩豊かな花ばなは、それに呼応して、春の風に揺れていた。少女の白いスカートがひるがえり、鮮やかな赤や黄や青や薄紅や紫が、やわらかな緑の葉とともに音のない旋律を奏でている。その指揮者であり、また奏者である少女は、自らのうつくしさも知らずに奏し続ける。
 陽は次第に高くなり、しかし、少女を照らす光はあくまでやさしい。青い空を行き交う雲も、静かに少女を見守っている。いつしか、じょうろの水もからになり、少女は花壇の花それぞれに、うっとりとした眼差しを向ける。語らうように、心通わすように。花たちはその美しさと微かな甘い香りで以てそれに応える。爽やかな風が彼女らを吹き抜けていく。ちに
 ――ふと、少女は花壇の一隅の花に、何か想ったらしく、長くその場にしゃがみこんだ。スカートの裾が土に汚れることも構わずに。少女の顔には今まで通りの微笑があった。が、少しだけ――ほんの少しだけ、その微笑に影が射していた。しかしまた同時に、それまでにはない悦びもまた仄めいているようだった。
 少女は恋をしていたのだった。心の奥底に秘める、淡い恋心であった。
 少女の目の前には、黄色い柱頭の周りを細く白い花びらが囲む、慎ましい花が――マーガレットが――幾本も咲いていた。少女はこの飾り気のない清楚な花が、とりわけ好きだった。
 悲しそうな表情で少女は「ごめんなさい。」と、口の中で小さく呟くと、しゃがんだまま頭を深く下げた。そうして一本の花を手折った。花はその振動で小さく揺れた。少女は立ち上がり再び深く御辞儀をすると、木陰まで小走りに駆けて行った。
 少女は首を巡らせて、もとよりいるはずのない人影がないのを確認してから、木の根元に座った。木陰に入っても、マーガレットの花のきれいな白さは失われなかった。少女は頬を上気させながら、白い花びらを一枚いちまいちぎっていった。
「好き。嫌い。好き。嫌い。…………」
 花びらは一枚また一枚と、純白のスカートの上に埋もれていった。そうして最後の一枚もスカートの上に落ちると、少女は急に立ち上がり、陽の光の下に駆けだした。ちぎられた花びらが木陰ではらはらと舞った。
 少女はスカートをひらめかせながら、両の手を広げ、空を仰いで回っていた。晴れやかな笑顔が、少女の顔にはあった。片手には花びらの無い花がしっかりと握られていた。
 眩しいまでの陽光が少女を照らしていた。少女は太陽よりもうつくしく輝いていた。

2013年5月8日水曜日

「顔のない女」

	
  月の輝く夜更けに、教会の前へ赤子が捨てられた。冷えた月にてらされて、赤子は泣くでもなく、去って行く若い母親の後ろ姿をみつめていた。母親は肩を震わせ、振り返りたいのを必死に堪えているようだった。母親の姿が見えなくなっても赤子は泣かなかった。やがて眠気がさしたのか、赤子は目を閉じた。寒い夜だった。赤子は目を覚ます気色も見せず、朝を迎えた。静かな、教会らしい、いつもの朝だった。
 赤子はすぐに、僧侶の一人にみつけられた。その日から、教会は赤子を新しい家族の一員として育てることにした。僧侶の誰もが、赤子へ我が子のような愛情を以て接した。赤子は素直でおとなしい少女へとなった。教えをよく守り、幼いながらも健気に務めを果たした。僧侶たちで少女を可愛がらぬ者はなかった。そうして、少女は、少女から女へとなった。
 相変わらず女は勤勉だった。また、誰にでも親切だった。しかし、町の人々は女のことを噂し合った。まるで人形のようだ。紅い血が通っていないのではないか。まさか悪魔の子ではあるまいか。――と。
 女は笑ったことが無かった。笑った顔ばかりではない、女の感情を表した顔を見た者は誰もいなかった。それは僧侶たちも同じことだった。赤子の頃より生活を共にしながら、一度として女の表情らしい表情を見た者はいなかった。が、僧侶たちは女に変わらぬ愛情を持ち続けた。
 女は町の人々の噂が耳に入っても、それまで通り人々に優しく接した。それまで以上に優しく接するのでもなければ、笑顔を見せるでもなかったが。
 女のいる教会に、若い僧侶が仕事絡みでやって来た。それから若い僧侶はそのまま教会にいることになった。彼は愛嬌のある道化者だった。いつも冗談を言っては周囲を笑わせていた。しかし女は彼の道化にも笑顔を見せたことはなかった。女の頬すら動かさぬ顔を見る度に、彼は何かしら寂寞を感じるのが常だった。それでも彼は女の前での道化を止めることはなかった。次第に彼は女に惹かれだした。女の笑顔が見たくなった。機会をみつけては女と行動を共にし、道化を繰り返した。が、やはり、女はいつも笑わなかった。
 二人である老夫婦を訪れた帰り道だった。大道芸人が大勢の人に囲まれていた。女はふと足を止め、人垣を透かしてその光景を眺めた。女の目に道化師の姿が映った。道化師は大きな玉に乗りながらジャグリングをしていた。瞬時には数えられないほどの色鮮やかな球が綺麗に弧を描いていた。人々から拍手が起こった。するとそれが合図だったかのように、道化師はわざと球を取りそこない、大袈裟に転げ落ち、頭か次々と球を浴びた。見物はどっと笑った。
 女の隣で一緒に見ていた若い僧侶も、見物同様、声を出して笑った。女はやはり、笑わなかった。ただ、憂いを含んだ眼をして道化師をみつめていた。
「――あなたは私を笑わせようと必死ですね。」
 女は彼の方を見ずに、道化師を見たまま言った。彼は途端に顔を紅くし、俯いた。
「いつもあなたはあの道化のように、私の前で滑稽なことをしますね。私が笑わないのはいけないことですか?」
 女は彼の方を向いた。彼は顔を上げることができなかった。平生と同じ、穏やかな口調だった。が、彼には堪らなかった。
「いや、そういうわけじゃありません……」
「私が笑えば、あなたは満足ですか? あなたはあなたの心を満たす為に私を笑わせようとしているのではありませんか? それが無償の行為だと言えますか?」
 彼はいよいよ項垂れた。一言の返しようもなかった。女は目を伏せ、口を噤んだ。言い過ぎたと思ったのかも知れない。が、女は無表情のままだった。やがて、女は再び口を開いた。
「……ごめんなさい。――でも、私はあなたのその優しい心がわかり過ぎて、どうしても笑うことができないのです。」
 彼はそっと顔を上げ、女の方を見た。そこに一瞬――ほんの一瞬だけ――女の哀しそうな、微かな笑顔を見たような気がした。

2012年10月24日水曜日

「君」

	
  毎日、君を探していた。君の髪を、君の腕を、君の脚を、君の耳を、君の唇を、君の瞳を、…………
 だけど、誰にも、君をみつけることができない。誰も彼も、君とは別人だった。君の一部分すらみつからない。君はどこにもいなかった。
 けれども毎日探していた。見る人全てに、君を探していた。目の前を幾人が過ぎただろう。君が現れることは無い。百人や千人、一万人や一億人、どれだけの人がこの眼に映っても、ただひとり、君がいなければそれが何だというのだろう。淀みなく繰り返される日々の中で、全てが色を失い、流れ去って行く。得るものも失うものも、何ひとつありはしない。無意味な時間だけが積み重なっていく。
 想い焦がれてもこがれても、君は現れない。朧げな幻影が、夢にも現にもゆらめいて。確かな像をむすびかけたと思った瞬間、幻影は儚く崩れ去り。もの憂い生活が重く覆いかぶさる。こんな生活に堪えていられるのは、君の存在で。遠い君の存在で。
 君がいなければどんなにか苦しいだろう。
 君がいなければどんなにか楽だろう。
 君の姿を見ることはできなくとも、君は確かに存在していて。手の届かぬところに確かに存在していて。指先が掠めることも未だ叶わず。徒らなこの生命はながれ。
 いつか君に逢うその時を――その時だけを胸に、今日も、どうにか、生きている。刻々と、かぼそい命の灯火は費やされ。時に己の存在を忘れかけ。それでも君をどこかに感じていて。
 君の笑顔が欲しくてほしくて。いつか逢えたらその時は、この無様な姿を笑ってはくれまいか。何も為せない、この滑稽な男を笑ってはくれまいか。君の為に、どれだけの道化にでもなろう。君の笑顔が欲しくてほしくて、さ。
 君を探している。
 今日も、君はみつからない。
 不安と焦燥懊悩の中、君を探して。君を探し続けて。どうにか、今日も、生きている。君がいるから、どうにか、生きて、いる。不可思議で不可解な、この漠とした世界の中で、意識を微かに繋ぎ止めていられるのは、君というものがいるから。
 来るべき日を待ちながら、無為の生活は続けられ。「来るべき日」は来るのだろうか?――心の寂しさ、暮れ残り。

2012年9月10日月曜日

「銃」

	
  最終の電車に揺られていた。僕の乗っている車両には、僕の他に誰も居なかった。正面の窓から見える夜の光を、ぼんやりと眺めていた。
 電車が速度を落とし、止まった。ホームに人影は少ないようだった。僕の乗る車両には、小太りの中年の男が入って来た。いかにもサラリーマン然とした男だった。厚いコートを着て、寒そうに両手をポケットに突っ込んでいた。男は、空いた車内にも拘らず、少しだけ間をおいて、僕の左隣に座った。
 電車が静かに稼働音を響かせながら、再び動きだした。僕はやはり、窓の外を眺めていた。
「あなた、銃とは素晴らしいものだと思いませんか?」
 速度が安定した頃、男は突然言った。僕が何の反応も示さぬうちに、男は続けた。
「銃は魅力的だ。極めて魅力的だ。多くの人間がその魅力に取憑かれる。本物の銃を撃ったことがあるなら、尚更だ。
 あなたは、なぜ銃があんなに魅力的か、わかりますか? ――造形の美しさ? ――メカニカルな動き?
 ――勿論それらの要因もあるでしょう。しかし銃をあんなにも魅力的にしているのは、『力』です。あの圧倒的な破壊力です。たとえ非力な者でも引き金をひくだけで、凶暴な力を得ることができるのです。どんなに腕力が強い者が相手でも、一発で致命傷を与えられる力があります。
 これは魅力的だ。自分が偉くなったような気になれる。これほど素晴らしいものは無い。
 銃を持てば、その力を試してみたくなる。止まっている標的に狙いを定める。撃ってみれば、その反動と轟音に胸が熱くなる。命中率が高まるにつれ、動いているものが撃ちたくなる。……
 それは、鳥や犬猫のありふれた小動物から始まるだろう。そうして、もっと支配慾を満たすことのできるものに対象は移っていくだろう。――そう、例えば人間のように――」
 男は僕を凝視していた。その眼は、サラリーマン然とした男の眼では無かった。瞬時に僕は理解した。そして、すぐさまポケットの中に隠し持っていた銃を男に突きつけた。――が、同時に男もまた銃を僕に突きつけていた。
「撃つか、ガキ? てめぇはもう逃げられやしねぇよ。たかだか拳銃一丁で偉くなったつもりか? 警察をなめ――」
 僕は引き金をひいた。男は額を穿たれて後ろに倒れた。男の持つ銃が窓ガラスに向けて撃たれた。男はそれきり動かなかった。
 車内は、男の乗る以前同様、静かになった。砕け散ったガラスの破片と男の死骸の他は、何ら変わるところが無かった。
 上着のポケットに銃ごと手を突っ込み、僕は俯きがちに別の車両に続く扉を開けた。右手に持つ銃の重みに、漲る力を感じながら。そうしてまた、これから来るべき状況に、激しく心を躍らせながら――

2012年8月15日水曜日

「夜を駆る」

	
  仕事帰りの道を歩いていた。もう深夜に近い時間だった。外灯も疎らで、月も出ていない、暗く細い夜道だった。星の一つさえ見えなかった。人影もまた、なかった。
 俺は煙草を片手に道を歩いて行った。とにかく眠りたかった。車も通らない道を足早に歩いた。視界の隅で、煙草の先の紅い焔が闇を規則的に飛んでいた。
 気がつくと、前方に男が歩いていた。俺は反射的に歩速を緩めた。夜目が効かない俺にはしっかりとは見えないが、背恰好と歩き方から確かに男だと知れた。男は近づいて来るのではなかった。寧ろ遠ざかっていた。俺はまた元の通り足を速めた。
 男との距離は近づきもしなければ、また、遠ざかりもしなかった。俺と男との歩く速さは奇妙なほど同じだった。俺は意識的に、速く、あるいは遅く、歩いてみた。が、気がつくといつの間にか男と同じ速さで歩いているのだった。のみならず、男は俺の前を歩き続けた。まるで先導するように、俺の住むアパートへの道すじを正確に歩いて行った。男の足に迷いがあるようには見えなかった。他に道を歩く人はなく、車もまた通らなかった。
 俺は疲れていた。早く眠りたかった。男のことは気にかけないことにした。普段は何も考えずに擦過して行く家並に、注意を紛らわせたりした。が、男はいつまで経っても俺の前を歩いていた。
 次の四つ角を右に折れればアパートが見えるという所で、男は不意に立ち止まった。俺もまた立ち止まっていた。男は何をするというでもない。ただ、直立不動に立ち止まっていた。
 俺は二本目の煙草に火を灯した。もうすぐ眠ることができる。俺は歩きだした。男との距離が徐々に縮まる。が、男は毫も動かない。次第に、離れた外灯の微かな明かりに、男の姿がはっきりとしてくる。男は春先だというのに、重そうな黒っぽいコートを着ていた。背は高くもなければ低くもない。とりわけ痩せているという感じもしなければ、太っているという感じでもない。両手をだらりと体のわきに下げ、少し俯いている。年の頃まではわからない。しかし、さほど若いとは思われない。
 ――そんな観察をしているうちに、何気なく声をかければ聞こえるほどの距離まで近づいていた。俺の決して大きくはない足音も聞こえているのかも知れない。
 俺は今まで歩いていた道の右端から左端へと移った。男を通り越さなければ、我が陋屋へは着けない。俺は心もち足を速めた。男はやはり、動かない。
 そうして、あと数歩で男と横並びになる所まで来た。男は動かない。通り越しざまに、男の顔を盗み見てやろうと思っていると、男は突然走りだした。猛然と走りだした。
 俺も走りだしていた。猛然と走りだしていた。俺は啣えていた煙草を投げ棄てた。急速に紅い火が視界から消えた。代わりに、男の姿が視界の片隅に残った。が、俺は男の方に顔を向けている暇など無かった。
 四つ辻を真っすぐ駆け抜けた。眠るはずが、これでは遠ざかっている。しかし、俺は走り続けた。男もまた、俺の真横を走り続けた。
 疲れていた。俺は疲れている。今すぐ眠りたい。それをなぜ、こんなに必死で走っているのだ? もう息が上がっている。煙草で肺はとっくの昔にいかれている。元より体力などありはしないのだ。
 自らがまき起こす風が耳元をごうごうと抜けていく。荒い呼吸音が絶えない。それでも速度を緩めることはしなかった。俺の烈しい息づかいに重なって、もうひとつ、横あいから烈しい息づかいが聞こえる。それは男のものだった。あの男だって苦しいのだ。それでも俺に遅れることなく走っているではないか。視界の隅から男の姿が消えはしない。男がそれ以上、大きくなることも小さくなることも無い。
 俺は走り続けた。体中の酸素が抜け出ていくのがわかる。唇が痺れる。四肢の感覚も危うい。俺は走り続けた。薄暗い道を走り続けた。男と共に走り続けた。
 男は俺の横を走っている。男がどこへ向かっているかなど知らない。男に訊こうにも、声を出すだけの余裕も無い。男とて、応える余裕など無いだろう。だが、訊きたかった。
 俺は訊いた――訊こうとした。が、俺の口から出たのは問ではなく、叫びだった。何か不明確な、大きな叫び声だった。男もまた叫んでいた。
 何がなんだか、わからなくなっていた。

2012年6月18日月曜日

「雨の声」

	
 
 雨の中を、傘をさすでもなく、急ぐでもなく、濡れるがままに歩く。人びとは奇異の視線をちらと投げる。それに気づかぬふりで、真直を見て歩く。全身はずぶ濡れ。
 寒くて、寒くて、仕方がなくて、――しかし、なぜか笑いが込みあげてきて。雨が視界を塞ぐ。雨音に包まれているうちに、現実とはおよそ遠いどこかへと迷い込む。
 泣いても、雨が頬を撫でてくれる。声も雨音が鎮めてくれる。
 だから、雨の中、濡れるがままの人間を見ても、そっとしておいた方が良いのかも知れない。

 冷たくしっとりとした腕が首筋にからみつく。真白く、肌理のこまかい女の腕。そして、何か耳もとで囁く。聞き返そうとするのだが、雨の中の静寂が、口を噤ませる。もっと強く囁いてくれ――。本当は知っている。確かに、聞こえはしないが、知っている。
 ただ、確信が欲しいだけだ。何の役にも立たない、この愚者の確信が。
 そっと抱き寄せ、耳もとに囁く。女と同じ言葉を。一語いちごたがうことなく――――

2012年5月24日木曜日

「逃飛行」

	
 
 部屋の片隅に、裏返して置かれた一枚の絵。いつか自分が描いた一枚の絵。自分の手を通して魂を吹き込んだ一枚の絵。その絵を画架に据え、いちめん灰に塗り潰す。消えていく己の魂。震えながら魂を消していく。怖くて、哀しくて、でも、やらなければいけないような気がして。
 灰に塗り固められた、表情のないカンヴァスを画架に掛け、部屋を後にする。今はまだ描けない。しかし、いつの日か、あの無のカンヴァスに命を通わせることを信じながら――
 屋上の風が強い。見下ろす世界には現実感がない。自分が現実から離れているに過ぎないことをすぐに感じて、誰からか隠れるように、そっとうつむき、微笑を洩らす。
 喧噪が遠く聞こえる。天上の神々はこんな気分なのだろうか。ふと空を見上げると、ひと筋の飛行機雲が曳かれていた。――空も人間が支配してしまった。――
 飛ぼうと思って、ありもしない翼を大きく拡げ、身を空に躍らせる。体がとても軽い。心もとても軽い。
 空を飛んでいる――

2012年4月22日日曜日

「祈り人」

	
  彼は毎日祈っていた。が、彼は神をもたなかった。あらゆる神を、彼は信じなかった。
 村外れの崖の突端で、彼は祈った。人々は彼を変わり者として、誰も相手にしなかった。村の多くの人々は、神をもっていた。彼を異教徒と見る者さえいた。
 祈りは静かに行われる。祈る為の祭壇や道具があるわけではない。何か祈りの言葉を発するでもない。ただ、彼は静かに祈っていた。
 風がそよぎ、陽光が降りそそぎ、時が流れる。祈りは続けられる。
 ある日、旅人が彼の噂を聞き、興味を覚え、彼に会いに行った。彼は崖でやはり祈っていた。
「――あなたは、何を祈っているのですか?」
 遠慮がちに話しかけた。話しかけても良いものかどうか、迷った為だった。それほどまでに、彼には何か、漂っていた。
「わかりません。考えたこともありません。」
 彼は静かに応えた。
「では、何故祈っているのですか?」
「祈らずにはいられないからです。」
 旅人は祈った。彼と共に祈った。何に対して、何を祈っているのかわからなかった。が、祈らずにはいられなかった。

2012年3月25日日曜日

「奇術師」

	
 手から飛び出た花に、人々は驚きと賞讃の歓声を送った。花を出した本人は、得意満面、嬉しくて仕方がならぬ。次々と両手から花は咲き乱れ、足元は花で満たされる。――しかし、哀しいかな、花は次つぎと枯れていく。
 もう早や、人々の歓声など聞こえない。必死に花をそれでも出し続ける。もうどうすることもできぬのだ。止めたところで枯れた花に埋もれるだけに過ぎぬ。
 ――花を、――花を。
 憑かれたように、手から花を出す。誰も喜ばぬ、自らも喜ばぬ。
 ――花を。
 何がなんだか、わけもわからぬ。

 花を――――

2012年3月11日日曜日

「薬男」

	
 彼は両親の死を待っていた。しかしそれは、遺産が目当てでもなければ保険金が目当てでも無かった。かといって、憎しみを抱いているわけでも無かった。寧ろ、彼は両親に卑屈なくらいの敬慕を感じていた。彼の人生は不孝そのものと言ってもよかった。が、それでも両親は彼に親らしい愛情を与えることを止めなかった。彼はその為に、どうにか両親よりは長く生きようと思った。
 が、彼は既に生活欲を失いつつあった。
 食慾は無く、常人の一食分にも満たない量をなんとか少しずつ口にしていた。彼は足りない栄養を、サプリメントと呼ばれる錠剤で補っていた。ほとんど食事量と変わらぬだけの多さだった。どちらが「補助」なのか、わからないぐらいだった。
 彼はまた不眠にも悩まされた。彼は薬に頼って眠りを得ようとした。しかし、薬の効き目は徐々に薄くなり、使用する量はだんだん増えていった。彼は夢と現の中で、鈍重な亀のように生活を続けていった。
 毎朝仕事に出かけ、すぐに家に戻ると、眠れもせぬベッドの中に潜り込んだ。何もしなかった。世の中の動きになど関心がなかった。無残な殺人事件が起きようと、大規模な地震が人々を襲おうと、無意味な戦争で多くの血が流れても、最早彼にはどうでも良いことだった。全てが彼にはもの憂い、遠い出来事だった。
 彼はじりじりと衰弱しだした。非合法な薬を摂取することで、なんとかその日その日を過ごしていた。彼は薬に酔いながらも、自分を見失うことは無かった。恍惚の直中にいながら、冷めきった眼で彼自身をみつめていた。
 何度も死を想った。彼が死ぬことで両親は解放されるのではないかと思った。彼が生きていることは、寧ろ両親にとって重荷なのではないかと思った。
 ――しかし、彼は死ななかった。
 両親は幸か不幸か、不吉な病になど侵されていなかった。健康と言って差し支えなかった。彼はただ、じっと両親の死を待っていた。いつ来るとも知れぬ、来るべき日を待っていた。薬浸けの体だけを恃みにして――

2012年2月22日水曜日

「蜘蛛の糸 ――尊彼陀の場合――」

	
     一

 ある日のことでございます。お釈迦様はひとり、極楽の池のほとりをお歩きになっていらっしゃいました。澄んだ池には赤や白、青や黄といった色も鮮やかな蓮の花が、それ自身美しい光を放つと同時に、馨しく清らかな芳香を絶え間なく漂わせております。辺りには、どこからか心地良い音色の音楽も流れているのでございます。
 お釈迦様はふと足をお止めになって、水面に浮かぶ蓮の葉の間から下の様子をご覧になりました。この池の下はちょうど地獄の底になっておりますから、限りなく澄んだ水を透きとおして、地獄の業火や、針の山や、獄卒の責苦にあう罪人の姿が、はっきりと見えるのでございます。
 しかし、お釈迦様のお眼にとまったのは地獄から延びる、一筋のきらきらと光る銀糸でございました。その銀糸をたどっていくと、そこのには地獄の蜘蛛が休みなく糸を紡いで、極楽へと差し延ばしております。
 お釈迦様がそうして刻一刻と延びて来る蜘蛛の糸をお見つめになっていらっしゃいますと、金や銀、金剛石や翠玉でつくられた輝かしい樹木の森から、尊彼陀たるかたと言う男が近づいて来るのに、お気づきになりました。この尊彼陀と言う男は、極楽浄土へと渡る為に善行の限りを尽くした僧侶でございました。しかし、その彼もたった一度だけ過ちを犯したことがございました。と申しますのは、ある時尊彼陀が読経をしておりますと、小さな蜘蛛が一匹、高い天井から糸を垂らして、尊彼陀の手の上に降りました。始めはむず痒さに耐えていた尊彼陀も、その時は弟子の不注意に気が昂ぶっていたこともあるのでございましょう、つい怒りにまかせてひと打ちに蜘蛛を殺してしまったのでございます。
 お釈迦様は、近づいて来る尊彼陀をご覧になりながら、尊彼陀が無闇に蜘蛛を殺したことをお思い出しになりました。そして、今にも極楽へと突き出しそうに、するすると延びる蜘蛛の糸に視線をお移しになられました。

     二

 お釈迦様と尊彼陀は蓮池のふちに並びながら、色々の事をお話しになっておりました。すると、色鮮やかな蓮が浮かぶ水面みなもから、一本の銀糸が延びて参りました。
「これは一体何でございましょう?」
 尊彼陀は不思議そうにお釈迦様に訊きました。
 お釈迦様は少し哀しそうなお顔をなさって、水面すいめんに生えた蜘蛛の糸をご覧になりました。
「あなたはこれがわかりませんか?」
 尊彼陀は、そうおっしゃられて美しい銀糸を見つめましたが、一向に何かはわかりません。
「これは蜘蛛の糸です」
「蜘蛛の糸……でございますか?」
「ええ、蜘蛛の糸です」
「何故、蜘蛛の糸がこのような所に?」
 お釈迦様はそれには何もお答えにならず、やはり哀しそうなお顔をなさりながら、ゆっくりと池の周りをお歩きになり始めました。

     三

 その後、蜘蛛の糸は一尺ばかり間を置いて、尊彼陀の行く先々に付いてまわりました。修行をする宮殿や住まいにも糸は突き出て、尊彼陀を離れないのでございます。
 ある時尊彼陀は蓮池のほとりに、いつものようにお佇みになっているお釈迦様に話しかけました。
「この蜘蛛の糸は何故私の後を追いかけて来るのでございましょうか?」
 お釈迦様は尊彼陀が過去に犯した罪を全く忘れていることをお嘆きになりました。
「あなたはその理由を知っているはずなのですよ」
「……私が、ですか…?」
 尊彼陀はそう呟きながら、何気なく蜘蛛の糸に手を延ばしました。
 その時でございます。尊彼陀の手が蜘蛛の糸に触れたかと思うと、糸は恐ろしいまでの力で蓮池の中に尊彼陀を引きずり込むのでございます。地獄では蜘蛛が、尊彼陀を捉えた銀糸を凄まじい速さで引き寄せております。尊彼陀は落ちるよりも速い速度で、みるみる赤々と燃え盛る地獄の底へと堕ちて行きました。
 あとにはただ、尊彼陀の残した蓮池の波紋がうっすらと水面に映っているばかりでございます。

     四

 お釈迦様は極楽の蓮池のほとりにお佇みになって、水面が静かになるまで尊彼陀の様子をご覧になっていらっしゃいましたが、やがて哀しそうなお顔をなさりながら、池のふちからそっとお離れになられました。
 尊彼陀の積んだ善行は、極楽という安らかな世界へ行こうという、信心の欠けた利己心によって為されたものであり、蜘蛛を殺したことに呵責の念をも抱かなかったのでございましょう。
 誰もいない蓮池には、さざ波ひとつたたず蓮がゆらゆらと静かに揺れ、その鮮やかな蓮の花からは馨しく清らかな香りが絶え間なく漂っております。辺りには心地良い音楽も奏でられているのでございます。
 極楽はいつもと変わりなく、穏やかな時が流れております。

2012年1月22日日曜日

「タクシー」

	
 行き先を告げると、人の好さそうな運転手はバックミラー越しに、僕に微笑みかけた。
「しっかし最近は凄い暑さですね。」
 ここ数日は、陽が落ちても容易に気温は下がらず、一日中暑苦しい日が続いていた。
 徐々に速度を増して後ろに流れて行く夜の明かりを眺めながら、僕は「ええ」と無愛想に頷いた。
「こうも暑いと涼しくなるような話のひとつも聞きたくなりませんか?」
 運転手は僅かに横顔を見せ、意味ありげに口元に薄笑いを浮かべた。
 車の中は十分に空調が効いていて、外の暑さにあてられていた僕は、暑いどころか肌寒ささえ感じていた。そしてまた、疲れていて、静かに車に揺られていたい気分だった。が、長い車中を思い、適当に調子を合わせて話を聞くことにした。そこには多少の好奇心も働いていないこともなかった。
「――涼しくなるような、と言うと乗せた客が急にいなくなったとか、その類の話ですか?」
「ええ、ええ。そういった類の話です。」
 この手の話を客に好んで話すらしい運転手は、嬉しそうな声で「そういった類の話」に力を入れ、何度も顎を頷かせた。
「お客さん、そういう話大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。」
「そいつは良かった。たまに酷く嫌がるお客さんがいましてね。この間なんか大変で……」
 と、若いカップルの女性が怖がってしまい、男性が凄い剣幕で怒ったことを苦笑しながら話した。
「『金なんか払えるか!』とかまで言われてね。あの時は弱りましたよ。」
「…それは大変でしたね……。――それで、涼しくなるような話というのは?」
 別段同情する気持ちもないまま、僕は話の矛先を好奇心の向くに任せた。
「そうそう、私は愚痴をこぼそうとしてたんじゃないんだ。」
 不快をひと欠けらも見せずに、運転手は白髪の少し混じった頭を額から後頭部にかけて撫でた。
「これは私の同僚から聞いた話なんですがね……」
 と、急に真剣味を帯びた声色で、その運転手はおもむろに話しだした。
     ――――――――――
 その同僚が休みの日に――そうですね…、仮に近藤としますか――休日に近藤がタクシーに乗ったんですよ。丁度このぐらいの終電も途切れた時間にね。この近藤という男は、他人の運転する車に乗るのはあまり好きではなくて――まあ、他人の運転が信用できないんでしょうね。それだけ、彼の運転は安全そのものでしたが。
 しかし、その時は近藤もやむなくタクシーをひろって家に帰ることにしたんです。近藤は、同業者ということもあって、どこのタクシー会社か車体を見たんですが、白地に黄色いライン、そして噴水か何かのマークがはいった、それは彼の知らない会社のものだった。個人タクシーでもない。「こんなタクシー会社あったか?」と不思議に思いながらも、まあ、そのタクシーに乗ったわけですよ。
 車が走りだしてから、運転手は彼に気軽に声をかけました。近藤は運転手と他愛ない世間話を交わしながらも、運転手の運転に注意を払っていました。でも、それも最初のうちだけで、すぐに運転手の腕に安心して、ゆったりとした気分でシートにもたれて話していたんです。
 その運転手が近藤と同年配だったということもあるんでしょう。次第に話が盛り上がって、やれ政治がどうだとか、やれ最近の若い奴らはどうだとか、そういう話を始めてね。他人が運転する車に乗ってるんだってことも忘れたみたいに熱く話し合っていたんですが……、近藤が、ふと気がつくともう家に着いていてもいいような時間をとっくに過ぎている。これはどうしたことかと窓の外を見ると、見慣れない夜の町並みがどんどん通り過ぎて行ってるんです。
 近藤はそりゃあ、タクシーの運転手をやってるもんですから、その辺りの道という道は知り過ぎるほどに知ってますから、驚いてね。
「どこを走ってるんだ」って努めて冷静な調子で運転手に訊いたんですが、運転手は「大丈夫、もうすぐ着きますから」と答えるだけで、どの辺りか何も言わない。そういう問答を何度か繰り返しているうちにも、車は走り続けて、いつの間にか街灯も何もない細い道を車は走っていた。
 さすがに近藤もいよいよ不安になりましてね、運転手に「止めろ」と言ったんです。でも、運転手はヘッドライトだけが照らす細い道を真直に進んで行く。
「止めろと言ってるんだ!」
 近藤は運転手の肩に手を掛け、激しく揺すぶりました。しかし、運転手は顔色ひとつ変えずにハンドルを握り続けています。
 細いなりにも道だった道が、その頃にはもうなくなっていました。近藤には、どこを走っているのか、どんな場所を走っているのかもわからなくなりました。ヘッドライトには地面すらも映らない。ただ、無限に広がる闇の中を走っているようでした。いや、車が走っているのか停止しているのかさえ、既に判然としなくなっていました。
「大丈夫、もうすぐ着きますから。」
 と運転手は口元に薄笑いを浮かべます。
 近藤は半ば吐き捨てるように訊きました。
「俺をどこに連れて行くつもりだ?」
「この世ではない場所ですよ。」
 運転手はやはり口元に薄笑いを浮かべて言いました。
「あなたのように『世間』というものにひどく疲れている人を運ぶのが、私の仕事でしてね。あなたの潜在的な願望を叶えてあげるのです、煩わしい『世間』とは無縁の遥か遠い世界へと、ね……
 ――何、これから行く所は、この不可解で、理不尽で、下等なこの世界より、だいぶましか知れません……」
 運転手の口元には、いつしか薄笑いと共に、牙のような鋭い犬歯が光っていました…………
     ――――――――――
「それきり近藤という男は行方不明になり、彼の姿を見た人はいません。」
 運転手の口調が親しげな様子から、だんだんと慇懃な調子になっていることに僕は気がついた。そしてまた、この話の矛盾を感じた。
「その近藤という人が行方不明になったのなら、なぜ、あなたが――」
 そこまで口に出して僕は気がついた。この話は客を怖がらせる、運転手の創り話なのだ、と。
 が、しかし同時に、車の窓の外は無辺の闇であることにも気がついた。目を凝らしても闇の他には何も見えなかった。
「近藤を乗せた、その運転手というのが私でしてね。」
 運転手は口元に薄笑いを浮かべ、牙のように鋭い犬歯を、薄暗い明かりの中に光らせた。
 僕は闇を突き進む――進んでいるのか、止まっているのか、後退しているのか、わからないタクシーの後部座席にじっと座り、黙然と果てしない闇に眼を注いでいた。
 僕は運転手に何を問いただす気力もないまま、静かに到着の時を待った。

2011年12月29日木曜日

「老犬と老人」

	
 椅子の上で空咳をすると、犬が私の足元に歩み寄り、丸くなった。
 どうやら、もう長くはないらしい。犬というのは人間なんかよりずっと生き死にを感じとる本能が敏感なのかも知れない。私が死んだらこの犬はどうするのだろうか。どうなる、と言った方が良いのだろうか。
 この犬は、まだ幼いうちに友人から預かったものだ。子供の時からどこか老成したような所のある、気性の穏やかな犬だった。既に老いていた私にはちょうど良い同居人だった。散歩こそ老人の脚には速すぎたが、普段家の中に居る分には、幼い頃から共に歳を重ねてきた友人のような存在だった。
 私も犬も老いた。この犬と暮らし始めて十年以上の歳月が過ぎた。どうやら先立つのは私の方が先らしいが、私の死後、生きていけるのだろうか。
 この世に生まれ出て以来、人の手に依って育ってきたこの犬が、――この老犬が、今さら野良犬になどなれるのだろうか。
 私の気持ちを知ってか知らずか、犬は相変わらず私の足元に目を閉じ、丸くうずくまっている。時折、思い出したように尻尾を静かに振り、そしてまた動きを止める。
 手を触れて撫でたい気もするが、体は意志に反して動こうとしない。ただ、重く鈍い歯車が動くように、どんよりと頭が微かに機能するばかりだ。あるいは、既に脳の神経から死滅していってるのかも知れない。
 私はこうして緩やかに死んでいく中に、この犬の夕飯を出してやることもできない。
 犬に先立たれて嘆くのは無論のことだが、犬を残して死ぬというのも、犬にすまないような気がする。
 私が弱る前に、どこかに預けた方が良かったのかも知れないが、この犬に看取られて死にたいという気持ちがないわけでもない。
 つくづく人とは利己的な生き物だ。いや、私がひどく利己的なだけに過ぎないか……。
 自分の心を慰める為に、生き物の一生を自分に追従させる。『飼う』という、高圧的な見方でペットを見下ろしている。
 それほど高等な生き物でもないだろう、人間というやつは。見回してみれば犬より下等な人間がどれだけいるか知れん。どこまでも愚かな種族だ……
 ……まあ、良い。もう、そんなことはどうでも良い…。ただ、この犬がどうなるのか気掛かりだ……
 どこかの忠犬よろしく、私の死んだ後にも、このまま足元に居続けられても困る。お前の糞尿で、死体の私が汚れてしまってはかなわん。――第一、私はお前の主人でも飼い主でもない。私はお前のことを、私を誰よりも理解してくれている良き友だと思っている。お前もまた、私のことをそう思っていて欲しい。友人には忠義など要らないものだ。死んだ友にとらわれることはない。ただ、ほんの少し悲しんでくれれば良い。そして時々、生きていた頃のことを思い出してくれれば良い。何、感傷的になる必要はない。お前と私が共に過ごした時間は楽しかったはずだ。少なくとも、そうであった時が多かったはずだ。その時間をもう共有することはできないが、一人というのも悪くないものだ。ゆっくりと自分の時間を過ごすことができる。生まれてからずっと誰かと一緒だったお前は寂しいと思うかも知れないが、慣れてしまえば気楽なものだ。人間の気まぐれになど付き合わなくて済む。誰にも合わせず自分のペースで生きれば良い。お前も老いてやっと自由を手に入れることができるな。
 ……もう、目も開かなくなってきた。だが、お前の姿は目で見なくとも、しっかりと思い描くことができる。お前も私同様、老けたな……。大分無理をさせてしまったようだ。私はもう逝くが、お前はゆっくりと時間をかけて来るが良い。…もっとも、私は天国で、お前は地獄に行ってしまうかも知れないがな。犬畜生などと言うだろう?……まあ、お前が地獄なら私も地獄だろう。気長に待っているとしよう。牛頭も馬頭も犬が好きなら良いが……
 …………。
 ……どうやら頭が錆びついてきたようだ。いよいよ、訣れの時が来たらしい。何だかとても気分が安らかだ……。不思議と後悔らしい後悔はない。若い頃は後悔ばかりしていたのにな……。お前のお陰かも知れない。……人生の中で……、年老いてからのお前との時間が一番楽しかったのかも知れない。……お前も、私にこんなに喜んでもらえるなんて……幸せ者だな……。
 楽しかったぞ……
 …じゃあな……
 …………
 ………
 ……
 …

2011年12月15日木曜日

「生――贖罪」

	
 心臓に楔を打ち込まれ、
 眉間を真直に割られ、
 片目を抉られ、
 そうして残る目にそれを見せられ、
 脳髄の中心を射られ、
 背に紅い十字を刻まれ、
 群集は湧き返る。
 鈍くなった頭は、隻眼で波打つ群れを認め、遠くにその声を聞いている。そして、敏感に嗤い声を聞いている。嘲声を聞いている。だが、頭脳は理解しようとしない。聞こえるがままに聞いている。心に反論すら起こることなく、群れの地平線を探している。
 ふと――、歓声の中に鳥の声を聞いた。垂れた重い頭を持ち上げると、弧を描いて飛ぶ鳥が一羽。罵声がする。
 喉が横一文字に切られ、
 片耳が殺がれ、
 燃える鉄に腹を灼かれ、
 群集は再び湧き返る。
 眼球の奥底が微かに光り、
 首と胴とが切断され、
 三度群集は湧き返る。一際大きな歓声。歓声は歓声を大きくする。
 胴を離れた頭は、――そのひとつきりの眼は、空を飛ぶ鳥をみつめている。
 頭部が巨大なハンマーに潰され、
 その音も歓声の為に聞こえない。

2011年12月1日木曜日

「通り雨」

	
 僕はこっそりと、彼女の姿を目で追っていた。小柄で可愛らしい感じのする人だった。週に一二度やって来て、文庫本を買っていくことが多かった。
「カバーはおかけしますか?」
「はい、お願いします。」
 恥ずかしそうな微笑を見せて彼女は言うのだった。その会話とも言えぬ短い応答が、僕にはただ嬉しかった。
 今日は何も買わないのだろうか。彼女は出入り口に向かって歩きだした。が、彼女はふと、窓の外を見て足を止めた。
 外は土砂降りだった。曇りがちな空ではあったが、さっきまでは雨の降る気配はなかった。それがいつの間にか酷い土砂降りになっていた。
 彼女は踵を返すと、女性誌などを気のないように繰りだした。傘を持ってきていないのだろう。
 僕は、雨が止まないよう願った。傘を貸そう。僕も今日は傘を持ってきていなかった。が、店の倉庫には誰のものとも知れぬ傘がある。誰のか僕の知ったことじゃない。傘を貸そう。――そんなことを思いながら、レジから離れようとすると、いつしか雨がぴたりと止んでいることに気がついた。のみならず、太陽の光さえ、きらきらと雨に濡れた街を光らせていた。
 彼女も雨が止んだことに気がついた。読んでいた雑誌を元の位置に戻すと、彼女は店を出て行った。
 僕は悄然と彼女の後ろ姿をみつめていた。

2011年11月17日木曜日

「誰もいない森」

	
 真昼の光も届かぬ森の中、少女は後ろを返り見かえりみ、木々を抜け、草かき分けて、走っていた。真白いスカートはおちこちが裂け、かぼそい手足には無数の擦り傷が。顔には不安と焦りと疲労が見える。心やさしき少女は激しく息をしながらも、森の静穏を破ったことに罪悪を感じている。己の身だけを案じていれば良いものを。走りはしって、精神肉体、共に極限に達したか。少女は小枝に躓き、倒れ伏す。もう起き上がる気力も体力もあろうはずが無い。少女はその時、初めて絶望を知ったような気がしていた。
 ――しかし、森も少女を不憫と思ったか。倒れた少女の前に、細ぼそとした山道が見えた。逃げれる。この道を下りて行けば逃がれることができる。少女の心の中に、一点の燐火がともった。それでも起き上がるのは至難の事。落葉枯枝繁る草、少女もがいて立てもせぬ。
 そこへ山道を通って現れたは眉目秀麗、女のような美顔の男。細みの体は、しかし、筋肉質の逞しき男。暖かく包みこむよな笑顔で少女に手をさし延べる。――駄目だ! いけない! そいつは悪魔だ。人の皮を被った悪魔だ! 欺されてはいけない!
 ――だがしかし、判断する能力も失われたか、或いは男の美貌に魅せられたか、少女は憐れ、悪魔の手をとった。その刹那、美しき人の笑顔が悪鬼のそれへと変わり、悪魔は少女を何処かへ拉っし去った。森も、悪魔から少女を護ることはできなかった。古には神に属していた悪魔のこと、護れようはずも無い。
 果たして、少女を追ったは何者だったか。
 無力な人の子、年甲斐もなく少女に恋した醜男、拙い語りを聴かせるこの俺だった。

2011年10月6日木曜日

「人間マシーン」

	
 彼は人間としてこの世に生まれた。そして、人間としての様ざまな理を学んだ。それは何も特別なことを学んだわけでは無い。彼以外の人間も、当然のように学んだ事柄だった。道徳もその一つであろう。種々の思想もその一つであろう。学識もその一つであろう。彼は、それらを十分とは言えないまでも――他の人間と大きく隔たりができない程度には――吸収しながら、大過なく育っていった。幼年期を過ぎ、少年期を過ぎ、青年となった。
 人生とは闘いだ。
 誰が言った言葉だろう。だが、彼に勝利の鉄則を教えてくれる者は無かった。人間がこの地上に現出して以来、いったい幾つの「勝利の鉄則」を掲げたことだろうか。現代に於いても、幾百幾千の「勝利の鉄則」で溢れている。試みに、本屋にでも行ってみると良い。分類としてはビジネス書だろうか、あるいは自己啓発本だろうか。勝利を謳った書物が整然と並べられている。勝利の凱歌が乱れ舞っている。が、それらを手にしたところで、人間は勝者へとなれるのだろうか。敗者のいない世界――。それは勝者もいない世界に違いない。全てが勝者になれるなど、闘いである以上、有り得はしない。敗者の上に勝者が成り立つのは、どうしようもない事実だった。時代と共に、勝利の在り方も変わるであろう。個人によって、勝利の質も自ずと異なってくるであろう。彼は闘いながら、勝利を模索するより仕方がなかった。
 しかし、彼は勝利への道がわからなかった。のみならず勝利さえもわからなかった。彼はどうにか敗北しないことだけを考えた。が、彼にとっては敗北とは何なのか、やはり、わからなかった。
 彼は闘いながら、疲労し、混乱し、衰弱していった。最早何を目指しての闘いなのか、わからなかった。闘いとは相手を打ち倒し、何かを得る為、あるいは何かを守る為の行いであるはずだった。が、彼はいったい何を得、何を守っているというのだろう。彼は次第に、自らの手で繰り返される殺戮に苦痛を感じだした。しかし手に持つ剣を抛ったが最後、自身が殺されるのを待つより外は無い。それは世間一般の言う敗残者になることだった。彼は世間に後ろ指をさされることを畏れた。朧げながら、敗北へ通ずる道であるような気もしていた。
 彼は剣を棄てなかった。――棄てることができなかった。だが、このままでは、彼の繊弱な精神がいつまで保つのか、甚だ疑わしかった。彼は混濁した頭で、一向にみつからない答を探していた。……
 彼は剣を棄てなかった。が、人間であることを棄てた。いわば自働偶人となったのである。彼は敵を殺すことに何ら痛痒も感じなくなった。目の前の敵を斬殺することだけに専念した。自ら敵を探すことはしなかった。何も考えなかった。そうしていれば、勝利へと近づかない代わりに、敗北することもなかった。それより外に方法はみつからなかった。
 毎日が淡々と過ぎていった。彼は反射だけで生きていた。相手が冗談を言ったなら笑い、愛想のひとつも言った。上司が怒鳴っているのなら反省し、仕事に精をだした。知人が悄気ていたのなら声をかけ、話を聞いて慰めた。女に惚れられたなら微笑み返し、甘い言葉を囁いた。他人に喧嘩を仕掛けられたなら怒り、論争をした。――しかし、それらはいわば、ままごとと変わらなかった。長年蓄積し学習したプログラムに添って行動しているに過ぎなかった。
 そこには苦痛も歓びも存在しなかった。――いや、必ずしも存在しないことはなかった。が、それは真綿にくるまれた感情のように間怠っこしく、彼の心を震わせることは無かった。しかしそれも、心を失くした自働偶人となった彼に、どれほどの意味があるというのだろう。彼は人間であることを止めたのだ。人間の皮をかぶった機械であることを望んだのだ。それ故、彼は人間の争いの範疇の外にいた。が、人間の皮をかぶっている為、表面上は人間の争いの中にいた。完全に人間の軛から逃れることはできなかった。
 日々は繰り返された。
 彼が機械となってからの生活も、十年近く経っていた。その十年の歳月は機械の彼にも、充分過ぎるほどの深い疲労を与えていた。
 ――いったい、これは、何であろう?
 彼の中に微かに残る人間が、呻きをあげた。ごまかしきれなくなったのである。どうにも、やりきれなくなったのである。しかし、今さら機械の体を棄てたところで、何になるというのか。敗残者への道筋を、一気に落下していくに外ならないではないか。
 彼の人間が叫びをあげる。機械の体をひきちぎり、生身のまま走りだそうと、人間が猛る。だが、それが何なのだ。徒らに苦しみを増すばかりではないか。彼は彼の人間を葬った。葬った――、彼はそう思った。が、息の根を止め得たのかどうか、彼自身、判然としない。
 彼は騙せぬ自分を何とか騙しながら、その日そのひを、過ごしている。最早、それは、敗残者の姿だった。彼も気づいていないわけでは無かった。しかし、機械となった彼には、もうどうでも良かった。彼の微かな人間も、完全に消え失せたのかも知れない。機械には勝利も敗北も有りはしない。それに何の疑問があろう。
 機械は今日も、素知らぬ顔で動いている。

2011年9月23日金曜日

「蝶」

	
 何だか、白い蝶が、とんでいました。陽の光の中でなお輝くような、真っ白い蝶でした。音もなく、蝶はひらめいていていました。
「お前は私をうつくしいと思うか?」
 蝶は訊ねました。その間も、翅はひらひらと舞うように動き続けています。
「はい。」
 素直に返事をしました。抗う気持ちは少しも起こりませんでした。
「私のようになりたいか?」
 蝶は純白というよりも、光そのもののようにまばゆく輝いていました。
「――はい。」
 何か得体の知れないものに導かれるように、しぜんとそう応えていました。
 すると、蝶は見上げるほどに高く舞いあがり、ゆっくりと円をえがきだしました。蝶の翅からは、無数の銀の粉がきらめき漂い、降ってきました。まるで時の流れが緩やかになったように、静かに、乱れもせず、空気中を漂っていました。銀の粉が睫にふれ、頬にふれ、肩にふれ、そうして全身を覆いました。銀の粉に包まれながら、見上げる蝶は、なおいっそう輝きを増します。
「追いて来い。」
 蝶はさらに高く舞いあがりました。
 青い空に飛翔する蝶を追いました。だんだんと速くなるその姿は、しかし、優雅でした。さえぎるもののない空をどこまでも追いました。ただ、夢中で追いました。
 ……どのくらい上昇を続けたでしょう。太陽は近く、空気は澄みわたり、微かな騒めきさえも聞こえませんでした。全くの静穏でした。眼下には、薄雲がたなびいていました。
「ここは誰も知らない永遠の地だ。あの金色に輝く太陽さえ知らない。太陽もこの高みには降りて来ることはできない。人間が機械の翼を得ようとも辿り着くことなどできない。
 ここは誰も知らない永遠の地だ。」
 やわらかな陽光が降りそそぎ、風が音もなく流れていきます。
「だが――」
 蝶の輝きが、一瞬、弱まったような気がしました。
「だが、私が手にしたものは、所詮この程度のものだ。お前はこんなものが欲しいのか? こんなものの為に、私と共に来たのか?」
 突然視界が、ぐらぐらと揺らぎ、暗くなっていきました。世界は急速に回転しました。不規則に、荒れ狂うように回転しました。天も地も、右も左もわからなくなり、意識は薄れていきました。眼の隅に、蝶の姿を見たような気がしました。霞む視界の中でも蝶は、しかし、うつくしく輝く翅を優雅にひらめかせていました。それきり、意識は絶えました。

        …………………………

 目を覚ますと、頭上を蝶がとんでいました。もうここは、「誰もしらない永遠の地」ではありませんでした。
「……僕は、あなたも知らない、誰も行けない高みへと、それでも行きたいと思います。」
 蝶は何も応えませんでした。名も知らぬ白い花へととまり、翅を休めました。そうして、真白いその身を花びらと同化させると、長い口をのばして静かに蜜を吸いだしました。
 いつまで待っても、蝶は何も言ってはくれませんでした。

2011年9月10日土曜日

「雨ニモマケル」

	
 何も為せず、日々を無意味に過ごし。
 苦悩しながら、何ひとつ行動を起こすでもなく。
 辛い、苦しい、と念仏のように繰り返し。
 それは万人が同じことだ、と言われれば返す一言いちごんもなく。
 同情乞いたさ、憐れみ誘う、例の手か。
 人畜無道の奴隷根性そのものの。
 それでも、どうにか人の道を真直ぐ生きようと。
 しかし後ろを見れば、蛇行に歪んだ道があり。
 夢想の中に、人の為、人の為、と呟いて。
 良かれと思い、差し伸べた手は、そんなもの要らぬ世話だと、ぱちんと平手ではじかれて。
 人を信じては裏切られ。
 知らずのうちに人を裏切り。
 世間の邪魔にならぬよう息潜め。
 愚者を演ずれば演ずるほどに軽んじられ。
 演じたつもりが、どんどん愚かになっていき。
 誰も彼もに愛想をつかされ。
 自分自身にも愛想がつき。
 八方塞がり、陋屋の中に閉じこもり。
 こんな雨の日には自らの先を思う。

 サウイフモノニ
 ワタシハナッテイル

2011年7月19日火曜日

「ウーロン茶」

	
 ……いったい、どれくらい歩いただろう。あてもなく、初めて来た知らない町を歩いていた。無論、地図などなく、何かを探しているでもなく、ただぼんやりと歩き続けてきた。
 静かな町だった。広い道でも車は通らず、見かけた人も数人ばかりだった。騒々しく慌しい全てのものから、解放されたような町だった。
 永遠にこの町を彷徨っている錯覚を感じだした頃、不意に視界がひらけ、海が見えた。
 海もまた静かに凪いでいた。船の姿も見えない。ここは漁場ではないらしかった。やはり人気のない砂浜へ、おりて行った。
 流木と思しき朽ちた木に腰掛け、海を眺めた。力強い太陽が海面を照らしていた。海の風がやわらかく流れていた。少なくなった煙草に火を着け、煙を深々と吸い込んだ。軽い眩暈のような感覚を愉しみながら、猶も海を眺め続けた。微塵も姿を変えることのない海を――。
 二本目の煙草を取りだそうとすると、背後に砂を踏む足音を聞いた。返り見ると若い女が立っていた。
「こんにちは。あんた、ここの土地の人じゃないね。何しに来たの? 何にも無い所なのに。」
 彼女は屈託のない笑顔で話しながら、断るでもなく隣に座った。
「気がついたらここに居たんだ。――だから何をしに来たのか、わからない。」
 冗談交じりに――半ばは本気で――言っていた。
「何それ? 記憶喪失?」
 声をだして笑いながら、彼女は手にしていたものを差しだした。
「ハイ、記憶喪失の不憫なあんたにわたしからのプレゼント。喉、渇いてない?」
 二つ持っていたウーロン茶のペットボトルの一つを手渡された。彼女は自分で持っているボトルのキャップを外すと、喉をならしながらうまそうに飲んだ。
「ウーロン茶嫌い? おいしいよ。」
 手にしたペットボトルに何かしら落胆を感じていた。それでもプラスチックのキャップを外し、喉を潤した。飲み慣れた味だった。うまかった。が、落胆は深まった。
「丁度、喉が渇いていたんだ。ありがとう。」
 その言葉に偽りは無かった。が、社交辞令的な嘘を言っているような気がした。
 ペットボトルのラベルをみつめながら、この町に抱いていた幻想が急速に崩れ去るのを感じた。楽しそうに何か喋り続ける女の声を遠くに聞きながら、二本目の煙草に火を着けた。

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