仕事帰りの道を歩いていた。もう深夜に近い時間だった。外灯も疎らで、月も出ていない、暗く細い夜道だった。星の一つさえ見えなかった。人影もまた、なかった。 俺は煙草を片手に道を歩いて行った。とにかく眠りたかった。車も通らない道を足早に歩いた。視界の隅で、煙草の先の紅い焔が闇を規則的に飛んでいた。 気がつくと、前方に男が歩いていた。俺は反射的に歩速を緩めた。夜目が効かない俺にはしっかりとは見えないが、背恰好と歩き方から確かに男だと知れた。男は近づいて来るのではなかった。寧ろ遠ざかっていた。俺はまた元の通り足を速めた。 男との距離は近づきもしなければ、また、遠ざかりもしなかった。俺と男との歩く速さは奇妙なほど同じだった。俺は意識的に、速く、あるいは遅く、歩いてみた。が、気がつくといつの間にか男と同じ速さで歩いているのだった。のみならず、男は俺の前を歩き続けた。まるで先導するように、俺の住むアパートへの道すじを正確に歩いて行った。男の足に迷いがあるようには見えなかった。他に道を歩く人はなく、車もまた通らなかった。 俺は疲れていた。早く眠りたかった。男のことは気にかけないことにした。普段は何も考えずに擦過して行く家並に、注意を紛らわせたりした。が、男はいつまで経っても俺の前を歩いていた。 次の四つ角を右に折れればアパートが見えるという所で、男は不意に立ち止まった。俺もまた立ち止まっていた。男は何をするというでもない。ただ、直立不動に立ち止まっていた。 俺は二本目の煙草に火を灯した。もうすぐ眠ることができる。俺は歩きだした。男との距離が徐々に縮まる。が、男は毫も動かない。次第に、離れた外灯の微かな明かりに、男の姿がはっきりとしてくる。男は春先だというのに、重そうな黒っぽいコートを着ていた。背は高くもなければ低くもない。とりわけ痩せているという感じもしなければ、太っているという感じでもない。両手をだらりと体のわきに下げ、少し俯いている。年の頃まではわからない。しかし、さほど若いとは思われない。 ――そんな観察をしているうちに、何気なく声をかければ聞こえるほどの距離まで近づいていた。俺の決して大きくはない足音も聞こえているのかも知れない。 俺は今まで歩いていた道の右端から左端へと移った。男を通り越さなければ、我が陋屋へは着けない。俺は心もち足を速めた。男はやはり、動かない。 そうして、あと数歩で男と横並びになる所まで来た。男は動かない。通り越しざまに、男の顔を盗み見てやろうと思っていると、男は突然走りだした。猛然と走りだした。 俺も走りだしていた。猛然と走りだしていた。俺は啣えていた煙草を投げ棄てた。急速に紅い火が視界から消えた。代わりに、男の姿が視界の片隅に残った。が、俺は男の方に顔を向けている暇など無かった。 四つ辻を真っすぐ駆け抜けた。眠るはずが、これでは遠ざかっている。しかし、俺は走り続けた。男もまた、俺の真横を走り続けた。 疲れていた。俺は疲れている。今すぐ眠りたい。それをなぜ、こんなに必死で走っているのだ? もう息が上がっている。煙草で肺はとっくの昔にいかれている。元より体力などありはしないのだ。 自らがまき起こす風が耳元をごうごうと抜けていく。荒い呼吸音が絶えない。それでも速度を緩めることはしなかった。俺の烈しい息づかいに重なって、もうひとつ、横あいから烈しい息づかいが聞こえる。それは男のものだった。あの男だって苦しいのだ。それでも俺に遅れることなく走っているではないか。視界の隅から男の姿が消えはしない。男がそれ以上、大きくなることも小さくなることも無い。 俺は走り続けた。体中の酸素が抜け出ていくのがわかる。唇が痺れる。四肢の感覚も危うい。俺は走り続けた。薄暗い道を走り続けた。男と共に走り続けた。 男は俺の横を走っている。男がどこへ向かっているかなど知らない。男に訊こうにも、声を出すだけの余裕も無い。男とて、応える余裕など無いだろう。だが、訊きたかった。 俺は訊いた――訊こうとした。が、俺の口から出たのは問ではなく、叫びだった。何か不明確な、大きな叫び声だった。男もまた叫んでいた。 何がなんだか、わからなくなっていた。
2012年8月15日水曜日
「夜を駆る」
2012年6月18日月曜日
「雨の声」
雨の中を、傘をさすでもなく、急ぐでもなく、濡れるがままに歩く。人びとは奇異の視線をちらと投げる。それに気づかぬふりで、真直を見て歩く。全身はずぶ濡れ。 寒くて、寒くて、仕方がなくて、――しかし、なぜか笑いが込みあげてきて。雨が視界を塞ぐ。雨音に包まれているうちに、現実とはおよそ遠いどこかへと迷い込む。 泣いても、雨が頬を撫でてくれる。声も雨音が鎮めてくれる。 だから、雨の中、濡れるがままの人間を見ても、そっとしておいた方が良いのかも知れない。 冷たくしっとりとした腕が首筋にからみつく。真白く、肌理のこまかい女の腕。そして、何か耳もとで囁く。聞き返そうとするのだが、雨の中の静寂が、口を噤ませる。もっと強く囁いてくれ――。本当は知っている。確かに、聞こえはしないが、知っている。 ただ、確信が欲しいだけだ。何の役にも立たない、この愚者の確信が。 そっと抱き寄せ、耳もとに囁く。女と同じ言葉を。一語 も違 うことなく――――
2012年5月24日木曜日
「逃飛行」
部屋の片隅に、裏返して置かれた一枚の絵。いつか自分が描いた一枚の絵。自分の手を通して魂を吹き込んだ一枚の絵。その絵を画架に据え、いちめん灰に塗り潰す。消えていく己の魂。震えながら魂を消していく。怖くて、哀しくて、でも、やらなければいけないような気がして。 灰に塗り固められた、表情のないカンヴァスを画架に掛け、部屋を後にする。今はまだ描けない。しかし、いつの日か、あの無のカンヴァスに命を通わせることを信じながら―― 屋上の風が強い。見下ろす世界には現実感がない。自分が現実から離れているに過ぎないことをすぐに感じて、誰からか隠れるように、そっとうつむき、微笑を洩らす。 喧噪が遠く聞こえる。天上の神々はこんな気分なのだろうか。ふと空を見上げると、ひと筋の飛行機雲が曳かれていた。――空も人間が支配してしまった。―― 飛ぼうと思って、ありもしない翼を大きく拡げ、身を空に躍らせる。体がとても軽い。心もとても軽い。 空を飛んでいる――
2012年4月22日日曜日
「祈り人」
彼は毎日祈っていた。が、彼は神をもたなかった。あらゆる神を、彼は信じなかった。 村外れの崖の突端で、彼は祈った。人々は彼を変わり者として、誰も相手にしなかった。村の多くの人々は、神をもっていた。彼を異教徒と見る者さえいた。 祈りは静かに行われる。祈る為の祭壇や道具があるわけではない。何か祈りの言葉を発するでもない。ただ、彼は静かに祈っていた。 風がそよぎ、陽光が降りそそぎ、時が流れる。祈りは続けられる。 ある日、旅人が彼の噂を聞き、興味を覚え、彼に会いに行った。彼は崖でやはり祈っていた。 「――あなたは、何を祈っているのですか?」 遠慮がちに話しかけた。話しかけても良いものかどうか、迷った為だった。それほどまでに、彼には何か、漂っていた。 「わかりません。考えたこともありません。」 彼は静かに応えた。 「では、何故祈っているのですか?」 「祈らずにはいられないからです。」 旅人は祈った。彼と共に祈った。何に対して、何を祈っているのかわからなかった。が、祈らずにはいられなかった。
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