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2012年1月22日日曜日

「タクシー」

	
 行き先を告げると、人の好さそうな運転手はバックミラー越しに、僕に微笑みかけた。
「しっかし最近は凄い暑さですね。」
 ここ数日は、陽が落ちても容易に気温は下がらず、一日中暑苦しい日が続いていた。
 徐々に速度を増して後ろに流れて行く夜の明かりを眺めながら、僕は「ええ」と無愛想に頷いた。
「こうも暑いと涼しくなるような話のひとつも聞きたくなりませんか?」
 運転手は僅かに横顔を見せ、意味ありげに口元に薄笑いを浮かべた。
 車の中は十分に空調が効いていて、外の暑さにあてられていた僕は、暑いどころか肌寒ささえ感じていた。そしてまた、疲れていて、静かに車に揺られていたい気分だった。が、長い車中を思い、適当に調子を合わせて話を聞くことにした。そこには多少の好奇心も働いていないこともなかった。
「――涼しくなるような、と言うと乗せた客が急にいなくなったとか、その類の話ですか?」
「ええ、ええ。そういった類の話です。」
 この手の話を客に好んで話すらしい運転手は、嬉しそうな声で「そういった類の話」に力を入れ、何度も顎を頷かせた。
「お客さん、そういう話大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。」
「そいつは良かった。たまに酷く嫌がるお客さんがいましてね。この間なんか大変で……」
 と、若いカップルの女性が怖がってしまい、男性が凄い剣幕で怒ったことを苦笑しながら話した。
「『金なんか払えるか!』とかまで言われてね。あの時は弱りましたよ。」
「…それは大変でしたね……。――それで、涼しくなるような話というのは?」
 別段同情する気持ちもないまま、僕は話の矛先を好奇心の向くに任せた。
「そうそう、私は愚痴をこぼそうとしてたんじゃないんだ。」
 不快をひと欠けらも見せずに、運転手は白髪の少し混じった頭を額から後頭部にかけて撫でた。
「これは私の同僚から聞いた話なんですがね……」
 と、急に真剣味を帯びた声色で、その運転手はおもむろに話しだした。
     ――――――――――
 その同僚が休みの日に――そうですね…、仮に近藤としますか――休日に近藤がタクシーに乗ったんですよ。丁度このぐらいの終電も途切れた時間にね。この近藤という男は、他人の運転する車に乗るのはあまり好きではなくて――まあ、他人の運転が信用できないんでしょうね。それだけ、彼の運転は安全そのものでしたが。
 しかし、その時は近藤もやむなくタクシーをひろって家に帰ることにしたんです。近藤は、同業者ということもあって、どこのタクシー会社か車体を見たんですが、白地に黄色いライン、そして噴水か何かのマークがはいった、それは彼の知らない会社のものだった。個人タクシーでもない。「こんなタクシー会社あったか?」と不思議に思いながらも、まあ、そのタクシーに乗ったわけですよ。
 車が走りだしてから、運転手は彼に気軽に声をかけました。近藤は運転手と他愛ない世間話を交わしながらも、運転手の運転に注意を払っていました。でも、それも最初のうちだけで、すぐに運転手の腕に安心して、ゆったりとした気分でシートにもたれて話していたんです。
 その運転手が近藤と同年配だったということもあるんでしょう。次第に話が盛り上がって、やれ政治がどうだとか、やれ最近の若い奴らはどうだとか、そういう話を始めてね。他人が運転する車に乗ってるんだってことも忘れたみたいに熱く話し合っていたんですが……、近藤が、ふと気がつくともう家に着いていてもいいような時間をとっくに過ぎている。これはどうしたことかと窓の外を見ると、見慣れない夜の町並みがどんどん通り過ぎて行ってるんです。
 近藤はそりゃあ、タクシーの運転手をやってるもんですから、その辺りの道という道は知り過ぎるほどに知ってますから、驚いてね。
「どこを走ってるんだ」って努めて冷静な調子で運転手に訊いたんですが、運転手は「大丈夫、もうすぐ着きますから」と答えるだけで、どの辺りか何も言わない。そういう問答を何度か繰り返しているうちにも、車は走り続けて、いつの間にか街灯も何もない細い道を車は走っていた。
 さすがに近藤もいよいよ不安になりましてね、運転手に「止めろ」と言ったんです。でも、運転手はヘッドライトだけが照らす細い道を真直に進んで行く。
「止めろと言ってるんだ!」
 近藤は運転手の肩に手を掛け、激しく揺すぶりました。しかし、運転手は顔色ひとつ変えずにハンドルを握り続けています。
 細いなりにも道だった道が、その頃にはもうなくなっていました。近藤には、どこを走っているのか、どんな場所を走っているのかもわからなくなりました。ヘッドライトには地面すらも映らない。ただ、無限に広がる闇の中を走っているようでした。いや、車が走っているのか停止しているのかさえ、既に判然としなくなっていました。
「大丈夫、もうすぐ着きますから。」
 と運転手は口元に薄笑いを浮かべます。
 近藤は半ば吐き捨てるように訊きました。
「俺をどこに連れて行くつもりだ?」
「この世ではない場所ですよ。」
 運転手はやはり口元に薄笑いを浮かべて言いました。
「あなたのように『世間』というものにひどく疲れている人を運ぶのが、私の仕事でしてね。あなたの潜在的な願望を叶えてあげるのです、煩わしい『世間』とは無縁の遥か遠い世界へと、ね……
 ――何、これから行く所は、この不可解で、理不尽で、下等なこの世界より、だいぶましか知れません……」
 運転手の口元には、いつしか薄笑いと共に、牙のような鋭い犬歯が光っていました…………
     ――――――――――
「それきり近藤という男は行方不明になり、彼の姿を見た人はいません。」
 運転手の口調が親しげな様子から、だんだんと慇懃な調子になっていることに僕は気がついた。そしてまた、この話の矛盾を感じた。
「その近藤という人が行方不明になったのなら、なぜ、あなたが――」
 そこまで口に出して僕は気がついた。この話は客を怖がらせる、運転手の創り話なのだ、と。
 が、しかし同時に、車の窓の外は無辺の闇であることにも気がついた。目を凝らしても闇の他には何も見えなかった。
「近藤を乗せた、その運転手というのが私でしてね。」
 運転手は口元に薄笑いを浮かべ、牙のように鋭い犬歯を、薄暗い明かりの中に光らせた。
 僕は闇を突き進む――進んでいるのか、止まっているのか、後退しているのか、わからないタクシーの後部座席にじっと座り、黙然と果てしない闇に眼を注いでいた。
 僕は運転手に何を問いただす気力もないまま、静かに到着の時を待った。

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