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2012年8月15日水曜日

「夜を駆る」

	
  仕事帰りの道を歩いていた。もう深夜に近い時間だった。外灯も疎らで、月も出ていない、暗く細い夜道だった。星の一つさえ見えなかった。人影もまた、なかった。
 俺は煙草を片手に道を歩いて行った。とにかく眠りたかった。車も通らない道を足早に歩いた。視界の隅で、煙草の先の紅い焔が闇を規則的に飛んでいた。
 気がつくと、前方に男が歩いていた。俺は反射的に歩速を緩めた。夜目が効かない俺にはしっかりとは見えないが、背恰好と歩き方から確かに男だと知れた。男は近づいて来るのではなかった。寧ろ遠ざかっていた。俺はまた元の通り足を速めた。
 男との距離は近づきもしなければ、また、遠ざかりもしなかった。俺と男との歩く速さは奇妙なほど同じだった。俺は意識的に、速く、あるいは遅く、歩いてみた。が、気がつくといつの間にか男と同じ速さで歩いているのだった。のみならず、男は俺の前を歩き続けた。まるで先導するように、俺の住むアパートへの道すじを正確に歩いて行った。男の足に迷いがあるようには見えなかった。他に道を歩く人はなく、車もまた通らなかった。
 俺は疲れていた。早く眠りたかった。男のことは気にかけないことにした。普段は何も考えずに擦過して行く家並に、注意を紛らわせたりした。が、男はいつまで経っても俺の前を歩いていた。
 次の四つ角を右に折れればアパートが見えるという所で、男は不意に立ち止まった。俺もまた立ち止まっていた。男は何をするというでもない。ただ、直立不動に立ち止まっていた。
 俺は二本目の煙草に火を灯した。もうすぐ眠ることができる。俺は歩きだした。男との距離が徐々に縮まる。が、男は毫も動かない。次第に、離れた外灯の微かな明かりに、男の姿がはっきりとしてくる。男は春先だというのに、重そうな黒っぽいコートを着ていた。背は高くもなければ低くもない。とりわけ痩せているという感じもしなければ、太っているという感じでもない。両手をだらりと体のわきに下げ、少し俯いている。年の頃まではわからない。しかし、さほど若いとは思われない。
 ――そんな観察をしているうちに、何気なく声をかければ聞こえるほどの距離まで近づいていた。俺の決して大きくはない足音も聞こえているのかも知れない。
 俺は今まで歩いていた道の右端から左端へと移った。男を通り越さなければ、我が陋屋へは着けない。俺は心もち足を速めた。男はやはり、動かない。
 そうして、あと数歩で男と横並びになる所まで来た。男は動かない。通り越しざまに、男の顔を盗み見てやろうと思っていると、男は突然走りだした。猛然と走りだした。
 俺も走りだしていた。猛然と走りだしていた。俺は啣えていた煙草を投げ棄てた。急速に紅い火が視界から消えた。代わりに、男の姿が視界の片隅に残った。が、俺は男の方に顔を向けている暇など無かった。
 四つ辻を真っすぐ駆け抜けた。眠るはずが、これでは遠ざかっている。しかし、俺は走り続けた。男もまた、俺の真横を走り続けた。
 疲れていた。俺は疲れている。今すぐ眠りたい。それをなぜ、こんなに必死で走っているのだ? もう息が上がっている。煙草で肺はとっくの昔にいかれている。元より体力などありはしないのだ。
 自らがまき起こす風が耳元をごうごうと抜けていく。荒い呼吸音が絶えない。それでも速度を緩めることはしなかった。俺の烈しい息づかいに重なって、もうひとつ、横あいから烈しい息づかいが聞こえる。それは男のものだった。あの男だって苦しいのだ。それでも俺に遅れることなく走っているではないか。視界の隅から男の姿が消えはしない。男がそれ以上、大きくなることも小さくなることも無い。
 俺は走り続けた。体中の酸素が抜け出ていくのがわかる。唇が痺れる。四肢の感覚も危うい。俺は走り続けた。薄暗い道を走り続けた。男と共に走り続けた。
 男は俺の横を走っている。男がどこへ向かっているかなど知らない。男に訊こうにも、声を出すだけの余裕も無い。男とて、応える余裕など無いだろう。だが、訊きたかった。
 俺は訊いた――訊こうとした。が、俺の口から出たのは問ではなく、叫びだった。何か不明確な、大きな叫び声だった。男もまた叫んでいた。
 何がなんだか、わからなくなっていた。

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