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2012年2月22日水曜日

「蜘蛛の糸 ――尊彼陀の場合――」

	
     一

 ある日のことでございます。お釈迦様はひとり、極楽の池のほとりをお歩きになっていらっしゃいました。澄んだ池には赤や白、青や黄といった色も鮮やかな蓮の花が、それ自身美しい光を放つと同時に、馨しく清らかな芳香を絶え間なく漂わせております。辺りには、どこからか心地良い音色の音楽も流れているのでございます。
 お釈迦様はふと足をお止めになって、水面に浮かぶ蓮の葉の間から下の様子をご覧になりました。この池の下はちょうど地獄の底になっておりますから、限りなく澄んだ水を透きとおして、地獄の業火や、針の山や、獄卒の責苦にあう罪人の姿が、はっきりと見えるのでございます。
 しかし、お釈迦様のお眼にとまったのは地獄から延びる、一筋のきらきらと光る銀糸でございました。その銀糸をたどっていくと、そこのには地獄の蜘蛛が休みなく糸を紡いで、極楽へと差し延ばしております。
 お釈迦様がそうして刻一刻と延びて来る蜘蛛の糸をお見つめになっていらっしゃいますと、金や銀、金剛石や翠玉でつくられた輝かしい樹木の森から、尊彼陀たるかたと言う男が近づいて来るのに、お気づきになりました。この尊彼陀と言う男は、極楽浄土へと渡る為に善行の限りを尽くした僧侶でございました。しかし、その彼もたった一度だけ過ちを犯したことがございました。と申しますのは、ある時尊彼陀が読経をしておりますと、小さな蜘蛛が一匹、高い天井から糸を垂らして、尊彼陀の手の上に降りました。始めはむず痒さに耐えていた尊彼陀も、その時は弟子の不注意に気が昂ぶっていたこともあるのでございましょう、つい怒りにまかせてひと打ちに蜘蛛を殺してしまったのでございます。
 お釈迦様は、近づいて来る尊彼陀をご覧になりながら、尊彼陀が無闇に蜘蛛を殺したことをお思い出しになりました。そして、今にも極楽へと突き出しそうに、するすると延びる蜘蛛の糸に視線をお移しになられました。

     二

 お釈迦様と尊彼陀は蓮池のふちに並びながら、色々の事をお話しになっておりました。すると、色鮮やかな蓮が浮かぶ水面みなもから、一本の銀糸が延びて参りました。
「これは一体何でございましょう?」
 尊彼陀は不思議そうにお釈迦様に訊きました。
 お釈迦様は少し哀しそうなお顔をなさって、水面すいめんに生えた蜘蛛の糸をご覧になりました。
「あなたはこれがわかりませんか?」
 尊彼陀は、そうおっしゃられて美しい銀糸を見つめましたが、一向に何かはわかりません。
「これは蜘蛛の糸です」
「蜘蛛の糸……でございますか?」
「ええ、蜘蛛の糸です」
「何故、蜘蛛の糸がこのような所に?」
 お釈迦様はそれには何もお答えにならず、やはり哀しそうなお顔をなさりながら、ゆっくりと池の周りをお歩きになり始めました。

     三

 その後、蜘蛛の糸は一尺ばかり間を置いて、尊彼陀の行く先々に付いてまわりました。修行をする宮殿や住まいにも糸は突き出て、尊彼陀を離れないのでございます。
 ある時尊彼陀は蓮池のほとりに、いつものようにお佇みになっているお釈迦様に話しかけました。
「この蜘蛛の糸は何故私の後を追いかけて来るのでございましょうか?」
 お釈迦様は尊彼陀が過去に犯した罪を全く忘れていることをお嘆きになりました。
「あなたはその理由を知っているはずなのですよ」
「……私が、ですか…?」
 尊彼陀はそう呟きながら、何気なく蜘蛛の糸に手を延ばしました。
 その時でございます。尊彼陀の手が蜘蛛の糸に触れたかと思うと、糸は恐ろしいまでの力で蓮池の中に尊彼陀を引きずり込むのでございます。地獄では蜘蛛が、尊彼陀を捉えた銀糸を凄まじい速さで引き寄せております。尊彼陀は落ちるよりも速い速度で、みるみる赤々と燃え盛る地獄の底へと堕ちて行きました。
 あとにはただ、尊彼陀の残した蓮池の波紋がうっすらと水面に映っているばかりでございます。

     四

 お釈迦様は極楽の蓮池のほとりにお佇みになって、水面が静かになるまで尊彼陀の様子をご覧になっていらっしゃいましたが、やがて哀しそうなお顔をなさりながら、池のふちからそっとお離れになられました。
 尊彼陀の積んだ善行は、極楽という安らかな世界へ行こうという、信心の欠けた利己心によって為されたものであり、蜘蛛を殺したことに呵責の念をも抱かなかったのでございましょう。
 誰もいない蓮池には、さざ波ひとつたたず蓮がゆらゆらと静かに揺れ、その鮮やかな蓮の花からは馨しく清らかな香りが絶え間なく漂っております。辺りには心地良い音楽も奏でられているのでございます。
 極楽はいつもと変わりなく、穏やかな時が流れております。

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