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2011年5月29日日曜日

「親」

	
 夢をみた。
 両親の夢だった。しかし彼らの顔は見えなかった。
 夢の中で僕は眠っていた。父母と暮らしていた家の、自分用の部屋として与えられていた部屋のベッドだった。
 何か学校の行事の関係で、平日だが休みだった。僕はベッドの中で、まどろんでいる。休日の日は、厚いカーテンをひいた暗い部屋の中で、遅くまで眠っていることが多かった。
 遠くで、低い父の声がする。どうやら、僕が寝ているのか、母に訊いているらしい。
 父の階段を上がって来る音がする。その足音が誰のものなのか、そしてその足音の主がどういう精神状態なのか、聞き分ける術を僕はいつの間にか身につけていた。それは確かに父の足音だった。音をたてないようにどんなに気を配っても、どうしても消すことのできない、微かな音と気配があった。僕は起きようとしているのか、寝たふりをしようとしているのか、自分でもわからない。ただ、無性に眠くて目が開かない。ドアの開く気配がし、父はしばらくそこに佇み、静かに去って行く。僕はなんだか悪いことをしているような気がして、意を決して目を開ける。
 ――が、そこは僕の独り住み馴れた薄汚いアパートの一室だった。それでも父母の気配が辺りに残っているような気がした。どんよりと重い頭を深く枕に沈めながら、父母を想った。もう、数年会っていなかった。不孝ばかり重ねていた。会わせる顔がなかった。
 数分をそうして虚空をみつめていた。
 ようやく、起きようと立ち上がり、水でも飲もうと部屋のひとつきりのドアへと手をかけた。それでもそこに――扉の向こうに、父母が居るような気がした。扉を開ければ父母に会えるような気がした。
 扉を開けた。
 誰も居なかった。居るはずが無かった。
 ひとり、照れくさく、苦笑した。誰に見せるでもなく苦笑した。

2011年5月22日日曜日

「灰神楽」

	
 波が退くように、静かに眠りから覚めた。部屋の中は薄暗く、夜が明けかかっているのか、日が暮れかかっているのか、あるいはただ、曇り日なのか、判然としなかった。いつから眠り、どのぐらい眠ったのか、時間の感覚も失われていた。時計を見る気力も無かった。
 ほとんど無意識に煙草を啣え、ほとんど無自覚に火をともす。体に沁みついた悪癖だった。紫煙に包まれながら、鈍く重い頭は思考することを放擲している。ただ、漠とした負のイメージが、胸の辺りを重苦しく締めつける。
 ――雨。
 微かな雨音がしているようだった。目を閉じ耳を澄ますと、絶えなく降り落ちる柔らかな雨粒一つひとつを感ずるような気がした。今でこそ雨に安らかさを覚えることもできるようになった。
 ――が、ある一時期、雨が降ると終日部屋に閉籠もり、自殺ばかり考えていた。その頃、天候によって気分が大きく左右された。字義どおり「お天気屋」だった。鬱々とした毎日の中でじりじりと追い詰められ、何をするのも面倒で苦しかった。そんな最中でも、好く晴れた日は何か救われた気がして、陽の光を求め、あてもなく歩いた。少しだけ、不断の苦悩と焦燥を忘れ、忘我の境をかいまみたりした。しかし、夕暮れの赤い日射しを見ると不意に悲しくなり、今にも泣きだしそうな気持ちで急ぎ家へと帰り部屋の明かりをつけた。そして電灯の下で、自らの身の先を思った。
 雨の日は神の悪意を感じた。雨の日が続くと、神を信じずに――しかし神を呪った。雨音を聞きながら薄暗い部屋で天井を睨んでいた。息をするのも辛く、ひと呼吸毎に弱っていくようだった。死ぬことばかり考えていた。苦しみから逃れるには死ぬより方法が無いと考えていた。明日死のう、明日死のう、そう思いながら、さわやかな朝日が部屋に射し込むと、もう少しだけ生きてみよう、せめて今日一日だけでも……。そんなふうに死に時を少しずつ延ばして危うく生存らえていた。死ぬのが怖かった。死に飛び入るだけの情熱も失っていた。
 そんな人間がよく今日の今まで生きてきたものだ。今はあの頃のように、毎日自殺することばかり考えてはいない。――ただ時々、ふっ――と自殺を考える。それでも、まだ、生きている。……
 いつの間にか手にした煙草の灰が、だいぶ長くなっていた。一度も落としていなかった灰は、ゆるやかな弧を描いて危うく垂れていた。手を動かさないようにして、火先をじっとみつめる。音も無く、静かにひとすじの煙が真直に立ちのぼる。やがて半分ほども灰になったところで、力尽きたように灰は折れた。そしてその時初めて気がついた。灰が落ちたのは灰皿ではなく、屑籠の中だということを。
 自分は屑籠を抱えるようにして、煙草を喫っていた。プラスチックの安物の、小ぶりな屑籠だった。それでも構わずに煙草をそのまま喫い続け、灰をそのまま屑籠に落とした。
 雨は相変わらず寂しく降っていた。
 肺の隅々を煙で満たし、ゆっくりと吐き出す。煙草は徐々に――しかし確実に、短くなっていく。銘柄の刻印も燃え、煙草を挟む指を焦がそうと焔は近づいてくる。
 ――ヂリヂリ。そんなフィルターを灼く小さな音をさせながら、煙草は煙を吐かなくなった。妙な焦げ臭さが鼻についた。気怠い眠気が擡げてきた。
 喫い殻を屑籠に捨て、再び毛布に潜り込んだ。薄暗い部屋の天井をぼんやりと眺め、雨音に耳を澄ました。弱々しい雨だが、それ以上弱くも強くもならないようだった。細かな律動を遠くに感じながらそっと目を閉じ、再び浅い眠りへと曳かれていった。

2011年5月19日木曜日

「流れ星」

	
 僕らは星空を眺めていた。雲のほとんどない綺麗な夜空だった。うす蒼い月が、冷たく優しい光を与えていた。
 妻は幼い娘を抱いて、
「あの明るい星があるでしょ? あれが北極星っていってね、……」
 などと、夜空を黒板代わりに授業をしている。娘はそれに時々質問しながら、熱心に聞いている。黒目がちの瞳には、無数の星がきらきらと映っている。どうやら優秀な生徒のようだ。ふたりは星空に微笑んでいる。
 僕はそれを聞くともなく聞きながら、黙って煙草を喫っている。僕は劣等性だな、と思って笑ってみたりする。
「――あっ、あれ、流れ星!」
 娘が夜空を指さして、残る手で僕の腕を叩く。指さす方を見上げると、そこには赤い星が瞬きながら流れていた。――流れていた? しかし、それは流れてなどいなかった。ゆっくり空を移動していた。耳を澄ますと微かに、遥か上空を翔る機械の鳥を感じる。赤い光は規則的に明滅を繰り返しながら移動する。
 娘はそうとは知らず、小さな手を合わせ、眼を閉じうつむきながら、急かされるように口の中に何か呟いている。
「――いや、あれは……」
 言いかけた僕に妻は振り向き、目顔で穏やかに微笑む。
 僕は口を噤み、未だ消えぬ人工の流れ星を見上げた。
 ようやく願いを唱え終えたらしい娘は、ぱっと見上げた空にまだ流れ星があることに気づくと、「あっ、まだある!」と言って、また口早に願いを呟きだした。
 僕は妻と顔を見合わせて笑った。しのび笑いをする妻に抱かれて、娘は静かに揺れている。真剣に星に何かを願いながら。
 娘が再び顔を上げるころには、赤く明滅する流れ星は、視界から消え去っていた。
「お星さまに何をお願いしたの?」
 妻は、空を見上げたままの娘の顔を覗きこみながら訊ねる。
「教えなぁい。教えたら願いごとが叶わなくなるんだもん。」
 そう言って、娘は嬉しそうに笑う。
「少しだけで良いから、教えて。」
「ダメ。イヤ。」
「少しだけだったらお星さまも許してくれるかも知れないよ。」
「それでもダメ。」
「ケチ。」
「違うもん。」
 ……やがて、他愛ないやりとりにも飽きたのか、ふたりは星空の授業を再開しだした。
「……大昔の人達はね、いくつかの星をつなげて動物とかに見立てたりしたの。それを『星座』って言って……」
 劣等性は授業を聞くとはなしに聞きながら、想いは広大な夜空を馳せている。
 ――俺も何か願いごとしたら良かったな……。そんなことを考えながら……

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