Now Loading...

2011年12月29日木曜日

「老犬と老人」

	
 椅子の上で空咳をすると、犬が私の足元に歩み寄り、丸くなった。
 どうやら、もう長くはないらしい。犬というのは人間なんかよりずっと生き死にを感じとる本能が敏感なのかも知れない。私が死んだらこの犬はどうするのだろうか。どうなる、と言った方が良いのだろうか。
 この犬は、まだ幼いうちに友人から預かったものだ。子供の時からどこか老成したような所のある、気性の穏やかな犬だった。既に老いていた私にはちょうど良い同居人だった。散歩こそ老人の脚には速すぎたが、普段家の中に居る分には、幼い頃から共に歳を重ねてきた友人のような存在だった。
 私も犬も老いた。この犬と暮らし始めて十年以上の歳月が過ぎた。どうやら先立つのは私の方が先らしいが、私の死後、生きていけるのだろうか。
 この世に生まれ出て以来、人の手に依って育ってきたこの犬が、――この老犬が、今さら野良犬になどなれるのだろうか。
 私の気持ちを知ってか知らずか、犬は相変わらず私の足元に目を閉じ、丸くうずくまっている。時折、思い出したように尻尾を静かに振り、そしてまた動きを止める。
 手を触れて撫でたい気もするが、体は意志に反して動こうとしない。ただ、重く鈍い歯車が動くように、どんよりと頭が微かに機能するばかりだ。あるいは、既に脳の神経から死滅していってるのかも知れない。
 私はこうして緩やかに死んでいく中に、この犬の夕飯を出してやることもできない。
 犬に先立たれて嘆くのは無論のことだが、犬を残して死ぬというのも、犬にすまないような気がする。
 私が弱る前に、どこかに預けた方が良かったのかも知れないが、この犬に看取られて死にたいという気持ちがないわけでもない。
 つくづく人とは利己的な生き物だ。いや、私がひどく利己的なだけに過ぎないか……。
 自分の心を慰める為に、生き物の一生を自分に追従させる。『飼う』という、高圧的な見方でペットを見下ろしている。
 それほど高等な生き物でもないだろう、人間というやつは。見回してみれば犬より下等な人間がどれだけいるか知れん。どこまでも愚かな種族だ……
 ……まあ、良い。もう、そんなことはどうでも良い…。ただ、この犬がどうなるのか気掛かりだ……
 どこかの忠犬よろしく、私の死んだ後にも、このまま足元に居続けられても困る。お前の糞尿で、死体の私が汚れてしまってはかなわん。――第一、私はお前の主人でも飼い主でもない。私はお前のことを、私を誰よりも理解してくれている良き友だと思っている。お前もまた、私のことをそう思っていて欲しい。友人には忠義など要らないものだ。死んだ友にとらわれることはない。ただ、ほんの少し悲しんでくれれば良い。そして時々、生きていた頃のことを思い出してくれれば良い。何、感傷的になる必要はない。お前と私が共に過ごした時間は楽しかったはずだ。少なくとも、そうであった時が多かったはずだ。その時間をもう共有することはできないが、一人というのも悪くないものだ。ゆっくりと自分の時間を過ごすことができる。生まれてからずっと誰かと一緒だったお前は寂しいと思うかも知れないが、慣れてしまえば気楽なものだ。人間の気まぐれになど付き合わなくて済む。誰にも合わせず自分のペースで生きれば良い。お前も老いてやっと自由を手に入れることができるな。
 ……もう、目も開かなくなってきた。だが、お前の姿は目で見なくとも、しっかりと思い描くことができる。お前も私同様、老けたな……。大分無理をさせてしまったようだ。私はもう逝くが、お前はゆっくりと時間をかけて来るが良い。…もっとも、私は天国で、お前は地獄に行ってしまうかも知れないがな。犬畜生などと言うだろう?……まあ、お前が地獄なら私も地獄だろう。気長に待っているとしよう。牛頭も馬頭も犬が好きなら良いが……
 …………。
 ……どうやら頭が錆びついてきたようだ。いよいよ、訣れの時が来たらしい。何だかとても気分が安らかだ……。不思議と後悔らしい後悔はない。若い頃は後悔ばかりしていたのにな……。お前のお陰かも知れない。……人生の中で……、年老いてからのお前との時間が一番楽しかったのかも知れない。……お前も、私にこんなに喜んでもらえるなんて……幸せ者だな……。
 楽しかったぞ……
 …じゃあな……
 …………
 ………
 ……
 …

2011年12月15日木曜日

「生――贖罪」

	
 心臓に楔を打ち込まれ、
 眉間を真直に割られ、
 片目を抉られ、
 そうして残る目にそれを見せられ、
 脳髄の中心を射られ、
 背に紅い十字を刻まれ、
 群集は湧き返る。
 鈍くなった頭は、隻眼で波打つ群れを認め、遠くにその声を聞いている。そして、敏感に嗤い声を聞いている。嘲声を聞いている。だが、頭脳は理解しようとしない。聞こえるがままに聞いている。心に反論すら起こることなく、群れの地平線を探している。
 ふと――、歓声の中に鳥の声を聞いた。垂れた重い頭を持ち上げると、弧を描いて飛ぶ鳥が一羽。罵声がする。
 喉が横一文字に切られ、
 片耳が殺がれ、
 燃える鉄に腹を灼かれ、
 群集は再び湧き返る。
 眼球の奥底が微かに光り、
 首と胴とが切断され、
 三度群集は湧き返る。一際大きな歓声。歓声は歓声を大きくする。
 胴を離れた頭は、――そのひとつきりの眼は、空を飛ぶ鳥をみつめている。
 頭部が巨大なハンマーに潰され、
 その音も歓声の為に聞こえない。

2011年12月1日木曜日

「通り雨」

	
 僕はこっそりと、彼女の姿を目で追っていた。小柄で可愛らしい感じのする人だった。週に一二度やって来て、文庫本を買っていくことが多かった。
「カバーはおかけしますか?」
「はい、お願いします。」
 恥ずかしそうな微笑を見せて彼女は言うのだった。その会話とも言えぬ短い応答が、僕にはただ嬉しかった。
 今日は何も買わないのだろうか。彼女は出入り口に向かって歩きだした。が、彼女はふと、窓の外を見て足を止めた。
 外は土砂降りだった。曇りがちな空ではあったが、さっきまでは雨の降る気配はなかった。それがいつの間にか酷い土砂降りになっていた。
 彼女は踵を返すと、女性誌などを気のないように繰りだした。傘を持ってきていないのだろう。
 僕は、雨が止まないよう願った。傘を貸そう。僕も今日は傘を持ってきていなかった。が、店の倉庫には誰のものとも知れぬ傘がある。誰のか僕の知ったことじゃない。傘を貸そう。――そんなことを思いながら、レジから離れようとすると、いつしか雨がぴたりと止んでいることに気がついた。のみならず、太陽の光さえ、きらきらと雨に濡れた街を光らせていた。
 彼女も雨が止んだことに気がついた。読んでいた雑誌を元の位置に戻すと、彼女は店を出て行った。
 僕は悄然と彼女の後ろ姿をみつめていた。

2011年11月17日木曜日

「誰もいない森」

	
 真昼の光も届かぬ森の中、少女は後ろを返り見かえりみ、木々を抜け、草かき分けて、走っていた。真白いスカートはおちこちが裂け、かぼそい手足には無数の擦り傷が。顔には不安と焦りと疲労が見える。心やさしき少女は激しく息をしながらも、森の静穏を破ったことに罪悪を感じている。己の身だけを案じていれば良いものを。走りはしって、精神肉体、共に極限に達したか。少女は小枝に躓き、倒れ伏す。もう起き上がる気力も体力もあろうはずが無い。少女はその時、初めて絶望を知ったような気がしていた。
 ――しかし、森も少女を不憫と思ったか。倒れた少女の前に、細ぼそとした山道が見えた。逃げれる。この道を下りて行けば逃がれることができる。少女の心の中に、一点の燐火がともった。それでも起き上がるのは至難の事。落葉枯枝繁る草、少女もがいて立てもせぬ。
 そこへ山道を通って現れたは眉目秀麗、女のような美顔の男。細みの体は、しかし、筋肉質の逞しき男。暖かく包みこむよな笑顔で少女に手をさし延べる。――駄目だ! いけない! そいつは悪魔だ。人の皮を被った悪魔だ! 欺されてはいけない!
 ――だがしかし、判断する能力も失われたか、或いは男の美貌に魅せられたか、少女は憐れ、悪魔の手をとった。その刹那、美しき人の笑顔が悪鬼のそれへと変わり、悪魔は少女を何処かへ拉っし去った。森も、悪魔から少女を護ることはできなかった。古には神に属していた悪魔のこと、護れようはずも無い。
 果たして、少女を追ったは何者だったか。
 無力な人の子、年甲斐もなく少女に恋した醜男、拙い語りを聴かせるこの俺だった。

2011年11月14日月曜日

新曲

	
 今週十六日に、新曲が出ます。約一年ぶりです。エレファントカシマシの新曲です。
 最近はコンスタントに曲を出してくれるので、ファンとしては嬉しい限りです。しかもライヴDVDが同日に発売されます。さらにCD、DVDを同時に買うと、宮本浩次モデルのストラトキャスターが一名に当たる! 世界に一本だけの、特注品のギターにはメンバーのサインが……。これはもう、買うしかない。買え。――と、エレファントカシマシの回し者でもないのに商業的な宣伝をしてしまいましたが、いや、本当に、好いのですエレファントカシマシは。
 現在、ほとんどの楽曲の作詞作曲を行っている宮本浩次は相当の読書家のようで、その詞にも文学的な表現が多くみられます。曲中に作家の名前が出ることもありますし、森鷗外で一曲書いてしまったりと、文学好きには親しみやすいかも知れません。
 生と死をみつめ、やるせなさや闇の先に信じる希望を、時に激しく時に叙情的にうたいあげる宮本浩次の歌声は、僕の心臓にあつい紅血を与えてくれます。かつて強く死を想っていた頃、『ココロに花を』を聴きながら、涙を流して、――生きよう――と思ったことがあります。エレファントカシマシは僕にとって、好きな歌手であるのみならず、命の恩人でもあるのです。
 「アーティスト」と軽々しく芸術家の仲間入りをし、恥ずかしげもなく、耳障りの良い言葉だけを並べてる奴の歌なんて聞きたくねぇよ。――そんなあなたは、エレファントカシマシを是非。

2011年10月31日月曜日

「疾駆する男」

	
 男は何も見たくなかったので、目を潰した。何も見えなくなった。男は何も言いたくなかったので、口を糸で塞いだ。何も言えなくなった。男は何も聞きたくなかったので、耳を殺ぎ鼓膜を破った。何も聞こえなくなった。
 男は静寂の闇の中を走りだした。どこへ走っているかなど、無論、わからなかった。何かにぶつかり、激痛が全身にはしり、倒れた。男はすぐに起き上がり、また走りだした。そうして何度も倒れては起き上がった。痛みは増し、疲労は募っていった。それでも男は走り続けた。ただ、全力で走った。
 男は終に疲れ果て、起き上がれなくなった。男は仰向けになった。それきりもう動けなかった。指先さえも、動かす気力は無くなっていた。
 男は草の匂いを感じた。それには土の匂いも混ざっているようだった。微かに頬を撫でるのは草の葉であろうか。涼しい風が全身を抜けて行く。
 男は今、草原の中に寝転ぶ、彼自身を想像していた。黄金の陽の光が存分に降りそそぐ草原だった。深緑の草が風に揺れ、葉擦れの音がさわさわと絶えずしている。透きとおった風が清らかに流れていく。空は青く輝き、雲は真白く浮かんでいる。広大な大地が体をしっかりと受けとめている。……
 ――ふと、男の頬に温かなものが触れた。滑らかな、心地好い感触だった。男の頭がそっと持ち上げられた。それは、力弱い者がやっとのことで行っているようだった。が、その動きは慎重を極めていた。男は抗わなかった。もとより抗う力など残っていなかった。男の頭が何かやわらかいものの上に乗せられた。男の額の髪が、やさしく払われた。そうして、ゆっくりと頭を撫でられていた。男は幸福だった。

 男は今、この世で最も残酷な状況にある自分を想像した。
 それでも男は、幸福だった。

2011年10月6日木曜日

「人間マシーン」

	
 彼は人間としてこの世に生まれた。そして、人間としての様ざまな理を学んだ。それは何も特別なことを学んだわけでは無い。彼以外の人間も、当然のように学んだ事柄だった。道徳もその一つであろう。種々の思想もその一つであろう。学識もその一つであろう。彼は、それらを十分とは言えないまでも――他の人間と大きく隔たりができない程度には――吸収しながら、大過なく育っていった。幼年期を過ぎ、少年期を過ぎ、青年となった。
 人生とは闘いだ。
 誰が言った言葉だろう。だが、彼に勝利の鉄則を教えてくれる者は無かった。人間がこの地上に現出して以来、いったい幾つの「勝利の鉄則」を掲げたことだろうか。現代に於いても、幾百幾千の「勝利の鉄則」で溢れている。試みに、本屋にでも行ってみると良い。分類としてはビジネス書だろうか、あるいは自己啓発本だろうか。勝利を謳った書物が整然と並べられている。勝利の凱歌が乱れ舞っている。が、それらを手にしたところで、人間は勝者へとなれるのだろうか。敗者のいない世界――。それは勝者もいない世界に違いない。全てが勝者になれるなど、闘いである以上、有り得はしない。敗者の上に勝者が成り立つのは、どうしようもない事実だった。時代と共に、勝利の在り方も変わるであろう。個人によって、勝利の質も自ずと異なってくるであろう。彼は闘いながら、勝利を模索するより仕方がなかった。
 しかし、彼は勝利への道がわからなかった。のみならず勝利さえもわからなかった。彼はどうにか敗北しないことだけを考えた。が、彼にとっては敗北とは何なのか、やはり、わからなかった。
 彼は闘いながら、疲労し、混乱し、衰弱していった。最早何を目指しての闘いなのか、わからなかった。闘いとは相手を打ち倒し、何かを得る為、あるいは何かを守る為の行いであるはずだった。が、彼はいったい何を得、何を守っているというのだろう。彼は次第に、自らの手で繰り返される殺戮に苦痛を感じだした。しかし手に持つ剣を抛ったが最後、自身が殺されるのを待つより外は無い。それは世間一般の言う敗残者になることだった。彼は世間に後ろ指をさされることを畏れた。朧げながら、敗北へ通ずる道であるような気もしていた。
 彼は剣を棄てなかった。――棄てることができなかった。だが、このままでは、彼の繊弱な精神がいつまで保つのか、甚だ疑わしかった。彼は混濁した頭で、一向にみつからない答を探していた。……
 彼は剣を棄てなかった。が、人間であることを棄てた。いわば自働偶人となったのである。彼は敵を殺すことに何ら痛痒も感じなくなった。目の前の敵を斬殺することだけに専念した。自ら敵を探すことはしなかった。何も考えなかった。そうしていれば、勝利へと近づかない代わりに、敗北することもなかった。それより外に方法はみつからなかった。
 毎日が淡々と過ぎていった。彼は反射だけで生きていた。相手が冗談を言ったなら笑い、愛想のひとつも言った。上司が怒鳴っているのなら反省し、仕事に精をだした。知人が悄気ていたのなら声をかけ、話を聞いて慰めた。女に惚れられたなら微笑み返し、甘い言葉を囁いた。他人に喧嘩を仕掛けられたなら怒り、論争をした。――しかし、それらはいわば、ままごとと変わらなかった。長年蓄積し学習したプログラムに添って行動しているに過ぎなかった。
 そこには苦痛も歓びも存在しなかった。――いや、必ずしも存在しないことはなかった。が、それは真綿にくるまれた感情のように間怠っこしく、彼の心を震わせることは無かった。しかしそれも、心を失くした自働偶人となった彼に、どれほどの意味があるというのだろう。彼は人間であることを止めたのだ。人間の皮をかぶった機械であることを望んだのだ。それ故、彼は人間の争いの範疇の外にいた。が、人間の皮をかぶっている為、表面上は人間の争いの中にいた。完全に人間の軛から逃れることはできなかった。
 日々は繰り返された。
 彼が機械となってからの生活も、十年近く経っていた。その十年の歳月は機械の彼にも、充分過ぎるほどの深い疲労を与えていた。
 ――いったい、これは、何であろう?
 彼の中に微かに残る人間が、呻きをあげた。ごまかしきれなくなったのである。どうにも、やりきれなくなったのである。しかし、今さら機械の体を棄てたところで、何になるというのか。敗残者への道筋を、一気に落下していくに外ならないではないか。
 彼の人間が叫びをあげる。機械の体をひきちぎり、生身のまま走りだそうと、人間が猛る。だが、それが何なのだ。徒らに苦しみを増すばかりではないか。彼は彼の人間を葬った。葬った――、彼はそう思った。が、息の根を止め得たのかどうか、彼自身、判然としない。
 彼は騙せぬ自分を何とか騙しながら、その日そのひを、過ごしている。最早、それは、敗残者の姿だった。彼も気づいていないわけでは無かった。しかし、機械となった彼には、もうどうでも良かった。彼の微かな人間も、完全に消え失せたのかも知れない。機械には勝利も敗北も有りはしない。それに何の疑問があろう。
 機械は今日も、素知らぬ顔で動いている。

2011年9月23日金曜日

「蝶」

	
 何だか、白い蝶が、とんでいました。陽の光の中でなお輝くような、真っ白い蝶でした。音もなく、蝶はひらめいていていました。
「お前は私をうつくしいと思うか?」
 蝶は訊ねました。その間も、翅はひらひらと舞うように動き続けています。
「はい。」
 素直に返事をしました。抗う気持ちは少しも起こりませんでした。
「私のようになりたいか?」
 蝶は純白というよりも、光そのもののようにまばゆく輝いていました。
「――はい。」
 何か得体の知れないものに導かれるように、しぜんとそう応えていました。
 すると、蝶は見上げるほどに高く舞いあがり、ゆっくりと円をえがきだしました。蝶の翅からは、無数の銀の粉がきらめき漂い、降ってきました。まるで時の流れが緩やかになったように、静かに、乱れもせず、空気中を漂っていました。銀の粉が睫にふれ、頬にふれ、肩にふれ、そうして全身を覆いました。銀の粉に包まれながら、見上げる蝶は、なおいっそう輝きを増します。
「追いて来い。」
 蝶はさらに高く舞いあがりました。
 青い空に飛翔する蝶を追いました。だんだんと速くなるその姿は、しかし、優雅でした。さえぎるもののない空をどこまでも追いました。ただ、夢中で追いました。
 ……どのくらい上昇を続けたでしょう。太陽は近く、空気は澄みわたり、微かな騒めきさえも聞こえませんでした。全くの静穏でした。眼下には、薄雲がたなびいていました。
「ここは誰も知らない永遠の地だ。あの金色に輝く太陽さえ知らない。太陽もこの高みには降りて来ることはできない。人間が機械の翼を得ようとも辿り着くことなどできない。
 ここは誰も知らない永遠の地だ。」
 やわらかな陽光が降りそそぎ、風が音もなく流れていきます。
「だが――」
 蝶の輝きが、一瞬、弱まったような気がしました。
「だが、私が手にしたものは、所詮この程度のものだ。お前はこんなものが欲しいのか? こんなものの為に、私と共に来たのか?」
 突然視界が、ぐらぐらと揺らぎ、暗くなっていきました。世界は急速に回転しました。不規則に、荒れ狂うように回転しました。天も地も、右も左もわからなくなり、意識は薄れていきました。眼の隅に、蝶の姿を見たような気がしました。霞む視界の中でも蝶は、しかし、うつくしく輝く翅を優雅にひらめかせていました。それきり、意識は絶えました。

        …………………………

 目を覚ますと、頭上を蝶がとんでいました。もうここは、「誰もしらない永遠の地」ではありませんでした。
「……僕は、あなたも知らない、誰も行けない高みへと、それでも行きたいと思います。」
 蝶は何も応えませんでした。名も知らぬ白い花へととまり、翅を休めました。そうして、真白いその身を花びらと同化させると、長い口をのばして静かに蜜を吸いだしました。
 いつまで待っても、蝶は何も言ってはくれませんでした。

2011年9月10日土曜日

「雨ニモマケル」

	
 何も為せず、日々を無意味に過ごし。
 苦悩しながら、何ひとつ行動を起こすでもなく。
 辛い、苦しい、と念仏のように繰り返し。
 それは万人が同じことだ、と言われれば返す一言いちごんもなく。
 同情乞いたさ、憐れみ誘う、例の手か。
 人畜無道の奴隷根性そのものの。
 それでも、どうにか人の道を真直ぐ生きようと。
 しかし後ろを見れば、蛇行に歪んだ道があり。
 夢想の中に、人の為、人の為、と呟いて。
 良かれと思い、差し伸べた手は、そんなもの要らぬ世話だと、ぱちんと平手ではじかれて。
 人を信じては裏切られ。
 知らずのうちに人を裏切り。
 世間の邪魔にならぬよう息潜め。
 愚者を演ずれば演ずるほどに軽んじられ。
 演じたつもりが、どんどん愚かになっていき。
 誰も彼もに愛想をつかされ。
 自分自身にも愛想がつき。
 八方塞がり、陋屋の中に閉じこもり。
 こんな雨の日には自らの先を思う。

 サウイフモノニ
 ワタシハナッテイル

2011年7月24日日曜日

河童

	
 七月二十四日が来ました。地上波アナログ放送が終了する日――というのはどうでも良くて、芥川龍之介の命日、「河童忌」であります。
 二十四歳で夏目漱石に作品を認められ、文壇に登場し、僅か十一年の作家生活で自らの生涯を閉じた芥川龍之介。三十五ですよ、三十五。もっと長生きしていたら、どんな作品を残しただろう――そんな詮なきことを想わざるを得ません。
 芥川は「河童」という小説を死の年に書いているのですが、簡単に筋を書けば、……人間が河童の国に迷い込み、その価値観の違いなど描いていく……、まあ、そんな感じですが、そこには芥川自身と思しき河童もでてきます。そしてその河童はピストルで頭を打ち抜いています。「河童」を書いている頃には既に、死の魔力から抜け出ることはできなかったかも知れません。
 河童という架空の――おそらく架空の――生物を芥川は好んで絵に描いていたそうです。しかもなかなか上手い。余談ですが、芥川は幼い頃、日本画家の横山大観に弟子入りを口説かれたこともあるそうで、その頃は洋画家になりたかった為、誘いを断ったとか。
 芥川龍之介という名前は、姓も名も水がちなんでいます。川は、まあ、そのままで、龍は東洋の龍なので水龍ですね。水生生物の河童にも何か親しみを感じていたのかも知れません。
 ――で、「河童」を書いた年に亡くなったわけですが、長らく睡眠薬のヴェロナールとジアールを致死量あおいだことが死因とされてきましたが、近年になって青酸カリによる服毒自殺説が有力になっているようです。死因がどうあれ、自らの意志で娑婆苦を離れていったのに違いはありません。
 あの世というものが在るのか無いのか、わかりませんが、現代の文芸を彼がどう思っているのか、意見を聞いてみたいものです。あなたの名前を冠した文学賞はえらいことになってます。――申し訳ありません。
 どうしても謝りたくなりました。

2011年7月19日火曜日

「ウーロン茶」

	
 ……いったい、どれくらい歩いただろう。あてもなく、初めて来た知らない町を歩いていた。無論、地図などなく、何かを探しているでもなく、ただぼんやりと歩き続けてきた。
 静かな町だった。広い道でも車は通らず、見かけた人も数人ばかりだった。騒々しく慌しい全てのものから、解放されたような町だった。
 永遠にこの町を彷徨っている錯覚を感じだした頃、不意に視界がひらけ、海が見えた。
 海もまた静かに凪いでいた。船の姿も見えない。ここは漁場ではないらしかった。やはり人気のない砂浜へ、おりて行った。
 流木と思しき朽ちた木に腰掛け、海を眺めた。力強い太陽が海面を照らしていた。海の風がやわらかく流れていた。少なくなった煙草に火を着け、煙を深々と吸い込んだ。軽い眩暈のような感覚を愉しみながら、猶も海を眺め続けた。微塵も姿を変えることのない海を――。
 二本目の煙草を取りだそうとすると、背後に砂を踏む足音を聞いた。返り見ると若い女が立っていた。
「こんにちは。あんた、ここの土地の人じゃないね。何しに来たの? 何にも無い所なのに。」
 彼女は屈託のない笑顔で話しながら、断るでもなく隣に座った。
「気がついたらここに居たんだ。――だから何をしに来たのか、わからない。」
 冗談交じりに――半ばは本気で――言っていた。
「何それ? 記憶喪失?」
 声をだして笑いながら、彼女は手にしていたものを差しだした。
「ハイ、記憶喪失の不憫なあんたにわたしからのプレゼント。喉、渇いてない?」
 二つ持っていたウーロン茶のペットボトルの一つを手渡された。彼女は自分で持っているボトルのキャップを外すと、喉をならしながらうまそうに飲んだ。
「ウーロン茶嫌い? おいしいよ。」
 手にしたペットボトルに何かしら落胆を感じていた。それでもプラスチックのキャップを外し、喉を潤した。飲み慣れた味だった。うまかった。が、落胆は深まった。
「丁度、喉が渇いていたんだ。ありがとう。」
 その言葉に偽りは無かった。が、社交辞令的な嘘を言っているような気がした。
 ペットボトルのラベルをみつめながら、この町に抱いていた幻想が急速に崩れ去るのを感じた。楽しそうに何か喋り続ける女の声を遠くに聞きながら、二本目の煙草に火を着けた。

2011年6月22日水曜日

「殺人罪」

	
 彼は、夕暮れの人気のない川辺を歩いていた。川辺をこんなふうに当てもなくぼんやりと歩くことは久しぶりだった。
 川の流れを何気なく見ていると、上流から子供が流されて来た。溺れている。声も出さずに溺れている。川は、さして大きな川ではない。流れもそれほど急ではない。少しでも泳ぎを知る者ならば子供を助けるのも充分可能だろう。が、彼は全く泳げなかった。
 弱ったな、と彼は思った。しかし、彼は彼自身が泳げないことを、弱ったと思ったのではなかった。久しぶりに来た川辺を歩いていたこんな時に、子供が溺れている場面に出交わした不運を、弱ったと感じたのだった。
 辺りを見廻すが、他に人は居ないようだった。助けを呼びに行っている間に子供は溺れ死んでしまうかも知れない。だが、このまま通り過ぎては、彼の心の中に終生――いや、少なくとも当分の間は――重苦しい闇雲が漂うだろう。それに、他に人は居ないように見えるが、どこに人の眼があるのかわかったものではない。彼の行動を監視している――いわば世間の眼が、彼を突き刺す。
 泳げぬ彼は、川へと跳び込んだ。彼は溺れた。当然のことだった。それでも彼は、溺れながらも何とか子供に近づいた。彼が助からないまでも、子供だけは助けようと思った。彼も子供も助かったならば、美談として世間に迎えられるであろう。また、彼が死んで子供が助かれば、それも美談であろう。そうしてまた、彼と子供が死んでしまっても、それはやはり美談であろう。が、彼が助かり子供だけ死ねば、それは醜聞かも知れない。彼は自分の命など、川に跳び込んだ時から諦めていた。
 彼はどうにか子供の体に触れることができた。が、溺れる者同士、互いを更に溺れさせるようにして、彼と子供は川の中へ没していった。
 翌日、子供の死体がみつかった。彼の死体は三日後になって、ようやく別の場所で発見された。二人の死体は全く聯関のないものとして処理された。誰も、彼らの事件を目撃した者はなかった。彼は、世間に殺された。

2011年6月13日月曜日

六月……

	
 六月といえばジューンブライド――なんてことを思わないのが文学バカ。六月といえば「桜桃忌」、太宰治を想います。一九四八年六月十三日、太宰は玉川上水に入水し、その生涯を終えました。奇しくも誕生日である六月十九日に遺体は発見されたそうです。そう、六月は太宰の命日と誕生日があるのです。数え年齢では四十歳を目前にして亡くなっています。
 「子供より親が大事、と思いたい。」と始まる太宰の小説「桜桃」から、友人であり作家の今官一が、命日を「桜桃忌」と名付けたそうです。「桜桃」は短い小説ですが、切ない。非常に切ない。優れた小品です。
 太宰の死後、彼と交流のあった坂口安吾は「不良少年とキリスト」というエッセイを書いています。その中で安吾は芥川と太宰を不良少年と呼びます。不良青年でも、ましてや不良老年でもなく、不良少年と。不良少年は負けたくない。どうにかして偉く見せたい。死んでも偉く見せたい。そしてこの二人の死は不良少年の自殺だったと。特別に弱虫の不良少年は、腕っぷしでも理屈でも勝てないから、何かひきあいを出してその威を借ろうと、キリストを引っ張り出した、と書きます。
 芥川は晩年に聖書をよく読んでいたそうです。それは信仰の書としてではなくキリストという個人に惹かれてのことのようです。「西方の人」「続西方の人」というキリストを描いた作品を最晩年に書いてもいます。また、太宰は作品の冒頭に、聖書からの引用をもちいることもありました。「汝を愛するが如く汝の隣人を愛せ」という聖書の言葉も好んでいたようです。
 僕は坂口安吾の言葉に全面的には同意する気はありませんが、芥川と太宰という二人の作家――若くして自らの命を絶った作家の共通点を探る上では面白い見方かも知れません。
 ちなみに坂口安吾は「不良少年とキリスト」の中で、「桜桃」は苦しい、あれを見せてはいけない、と否定的です。安吾の言いたいことはわかるし、確かにそうなのかも知れない。だけどそれを書いてしまう――書かざるを得ない太宰の弱さが、また彼の魅力でもあるのです。

2011年5月29日日曜日

「親」

	
 夢をみた。
 両親の夢だった。しかし彼らの顔は見えなかった。
 夢の中で僕は眠っていた。父母と暮らしていた家の、自分用の部屋として与えられていた部屋のベッドだった。
 何か学校の行事の関係で、平日だが休みだった。僕はベッドの中で、まどろんでいる。休日の日は、厚いカーテンをひいた暗い部屋の中で、遅くまで眠っていることが多かった。
 遠くで、低い父の声がする。どうやら、僕が寝ているのか、母に訊いているらしい。
 父の階段を上がって来る音がする。その足音が誰のものなのか、そしてその足音の主がどういう精神状態なのか、聞き分ける術を僕はいつの間にか身につけていた。それは確かに父の足音だった。音をたてないようにどんなに気を配っても、どうしても消すことのできない、微かな音と気配があった。僕は起きようとしているのか、寝たふりをしようとしているのか、自分でもわからない。ただ、無性に眠くて目が開かない。ドアの開く気配がし、父はしばらくそこに佇み、静かに去って行く。僕はなんだか悪いことをしているような気がして、意を決して目を開ける。
 ――が、そこは僕の独り住み馴れた薄汚いアパートの一室だった。それでも父母の気配が辺りに残っているような気がした。どんよりと重い頭を深く枕に沈めながら、父母を想った。もう、数年会っていなかった。不孝ばかり重ねていた。会わせる顔がなかった。
 数分をそうして虚空をみつめていた。
 ようやく、起きようと立ち上がり、水でも飲もうと部屋のひとつきりのドアへと手をかけた。それでもそこに――扉の向こうに、父母が居るような気がした。扉を開ければ父母に会えるような気がした。
 扉を開けた。
 誰も居なかった。居るはずが無かった。
 ひとり、照れくさく、苦笑した。誰に見せるでもなく苦笑した。

2011年5月22日日曜日

「灰神楽」

	
 波が退くように、静かに眠りから覚めた。部屋の中は薄暗く、夜が明けかかっているのか、日が暮れかかっているのか、あるいはただ、曇り日なのか、判然としなかった。いつから眠り、どのぐらい眠ったのか、時間の感覚も失われていた。時計を見る気力も無かった。
 ほとんど無意識に煙草を啣え、ほとんど無自覚に火をともす。体に沁みついた悪癖だった。紫煙に包まれながら、鈍く重い頭は思考することを放擲している。ただ、漠とした負のイメージが、胸の辺りを重苦しく締めつける。
 ――雨。
 微かな雨音がしているようだった。目を閉じ耳を澄ますと、絶えなく降り落ちる柔らかな雨粒一つひとつを感ずるような気がした。今でこそ雨に安らかさを覚えることもできるようになった。
 ――が、ある一時期、雨が降ると終日部屋に閉籠もり、自殺ばかり考えていた。その頃、天候によって気分が大きく左右された。字義どおり「お天気屋」だった。鬱々とした毎日の中でじりじりと追い詰められ、何をするのも面倒で苦しかった。そんな最中でも、好く晴れた日は何か救われた気がして、陽の光を求め、あてもなく歩いた。少しだけ、不断の苦悩と焦燥を忘れ、忘我の境をかいまみたりした。しかし、夕暮れの赤い日射しを見ると不意に悲しくなり、今にも泣きだしそうな気持ちで急ぎ家へと帰り部屋の明かりをつけた。そして電灯の下で、自らの身の先を思った。
 雨の日は神の悪意を感じた。雨の日が続くと、神を信じずに――しかし神を呪った。雨音を聞きながら薄暗い部屋で天井を睨んでいた。息をするのも辛く、ひと呼吸毎に弱っていくようだった。死ぬことばかり考えていた。苦しみから逃れるには死ぬより方法が無いと考えていた。明日死のう、明日死のう、そう思いながら、さわやかな朝日が部屋に射し込むと、もう少しだけ生きてみよう、せめて今日一日だけでも……。そんなふうに死に時を少しずつ延ばして危うく生存らえていた。死ぬのが怖かった。死に飛び入るだけの情熱も失っていた。
 そんな人間がよく今日の今まで生きてきたものだ。今はあの頃のように、毎日自殺することばかり考えてはいない。――ただ時々、ふっ――と自殺を考える。それでも、まだ、生きている。……
 いつの間にか手にした煙草の灰が、だいぶ長くなっていた。一度も落としていなかった灰は、ゆるやかな弧を描いて危うく垂れていた。手を動かさないようにして、火先をじっとみつめる。音も無く、静かにひとすじの煙が真直に立ちのぼる。やがて半分ほども灰になったところで、力尽きたように灰は折れた。そしてその時初めて気がついた。灰が落ちたのは灰皿ではなく、屑籠の中だということを。
 自分は屑籠を抱えるようにして、煙草を喫っていた。プラスチックの安物の、小ぶりな屑籠だった。それでも構わずに煙草をそのまま喫い続け、灰をそのまま屑籠に落とした。
 雨は相変わらず寂しく降っていた。
 肺の隅々を煙で満たし、ゆっくりと吐き出す。煙草は徐々に――しかし確実に、短くなっていく。銘柄の刻印も燃え、煙草を挟む指を焦がそうと焔は近づいてくる。
 ――ヂリヂリ。そんなフィルターを灼く小さな音をさせながら、煙草は煙を吐かなくなった。妙な焦げ臭さが鼻についた。気怠い眠気が擡げてきた。
 喫い殻を屑籠に捨て、再び毛布に潜り込んだ。薄暗い部屋の天井をぼんやりと眺め、雨音に耳を澄ました。弱々しい雨だが、それ以上弱くも強くもならないようだった。細かな律動を遠くに感じながらそっと目を閉じ、再び浅い眠りへと曳かれていった。

2011年5月19日木曜日

「流れ星」

	
 僕らは星空を眺めていた。雲のほとんどない綺麗な夜空だった。うす蒼い月が、冷たく優しい光を与えていた。
 妻は幼い娘を抱いて、
「あの明るい星があるでしょ? あれが北極星っていってね、……」
 などと、夜空を黒板代わりに授業をしている。娘はそれに時々質問しながら、熱心に聞いている。黒目がちの瞳には、無数の星がきらきらと映っている。どうやら優秀な生徒のようだ。ふたりは星空に微笑んでいる。
 僕はそれを聞くともなく聞きながら、黙って煙草を喫っている。僕は劣等性だな、と思って笑ってみたりする。
「――あっ、あれ、流れ星!」
 娘が夜空を指さして、残る手で僕の腕を叩く。指さす方を見上げると、そこには赤い星が瞬きながら流れていた。――流れていた? しかし、それは流れてなどいなかった。ゆっくり空を移動していた。耳を澄ますと微かに、遥か上空を翔る機械の鳥を感じる。赤い光は規則的に明滅を繰り返しながら移動する。
 娘はそうとは知らず、小さな手を合わせ、眼を閉じうつむきながら、急かされるように口の中に何か呟いている。
「――いや、あれは……」
 言いかけた僕に妻は振り向き、目顔で穏やかに微笑む。
 僕は口を噤み、未だ消えぬ人工の流れ星を見上げた。
 ようやく願いを唱え終えたらしい娘は、ぱっと見上げた空にまだ流れ星があることに気づくと、「あっ、まだある!」と言って、また口早に願いを呟きだした。
 僕は妻と顔を見合わせて笑った。しのび笑いをする妻に抱かれて、娘は静かに揺れている。真剣に星に何かを願いながら。
 娘が再び顔を上げるころには、赤く明滅する流れ星は、視界から消え去っていた。
「お星さまに何をお願いしたの?」
 妻は、空を見上げたままの娘の顔を覗きこみながら訊ねる。
「教えなぁい。教えたら願いごとが叶わなくなるんだもん。」
 そう言って、娘は嬉しそうに笑う。
「少しだけで良いから、教えて。」
「ダメ。イヤ。」
「少しだけだったらお星さまも許してくれるかも知れないよ。」
「それでもダメ。」
「ケチ。」
「違うもん。」
 ……やがて、他愛ないやりとりにも飽きたのか、ふたりは星空の授業を再開しだした。
「……大昔の人達はね、いくつかの星をつなげて動物とかに見立てたりしたの。それを『星座』って言って……」
 劣等性は授業を聞くとはなしに聞きながら、想いは広大な夜空を馳せている。
 ――俺も何か願いごとしたら良かったな……。そんなことを考えながら……

2011年4月25日月曜日

「決意」

	
 少年は哀しい夢をみていた。閉じた目からは涙が溢れ、目じりを伝って両の耳を濡らした。
 誰か少年の頬を優しく撫でる者があった。少年は閉じていた目を開いた。真っ青な空と、吹きちぎられた真っ白な雲が、遠くに見えた。澄んだ黄金色の陽光が少年を照らしていた。焦点の合わない、少年近くに揺れるのは、深緑の細長い草の葉だった。草は背が高く、空以外の何ものをも少年の目に映じさせなかった。
 少年は草原に寝ていた。ほとんど絶えることなく風が吹き抜けて行った。風は草たちをさわさわと鳴らし続けた。いつしか少年の涙も乾いていた。日の光は暖かく少年を包んでいた。
 少年は静かに横たわったまま、ゆっくりと瞬きを繰り返した。雲が少しずつ形を変えて移動している。決して一所に留まっていることはない。緩やかに雲は変わっている。その雲をずっと見ていると、純白だった色が次第に陰影を帯び、微妙に赤みを射し始める。陽が傾いているのだった。右手の空がうっすらと赤らんでいた。
 夕暮れは感じ易い少年の心を憂鬱にした。早熟な少年に、人間の老いと死を感じさせるには充分だった。
 少年は目を閉じた。そうすれば再び、あの夢をみることは、わかりきっていた。それでも少年は目を閉じた。どこか遠くで少年の名を呼ぶ声がする。誰かはわからない。しかし、とても懐かしい気がする。一緒に帰ろう、と言っている。少年は閉じた眶を開くことはなかった。
 少年は、彼に好意ある全てのものに、背を向けた。

2011年4月13日水曜日

「夢の町」

	
 その町に人影は無かった。旅人は左右を見回しながら、物音ひとつたたない道を歩いて行った。通り沿いには商店があった。色とりどりの果物や、美しい布の服や、大小形状さまざまの食器などが、店先に溢れんばかりに置かれていた。しかし、どの店にも客は疎か、店員の姿さえ見えなかった。
 旅人はたち並ぶ店を通り過ぎ、町の中央に位置する広場で足を止めた。そこには小さな噴水があった。その噴水だけがこの町で動きをなしていた。旅人は石造りのベンチに腰かけ、耳を澄ました。町の稼動する音はしなかった。ただ、噴水の水の流れる音だけが静かに聞こえていた。町には生活の匂いが確かにあった。が、人の気配だけはどこにも感ずることができなかった。
 旅人はベンチに横になった。太陽は穏やかに旅人を照らしていた。噴水のきらきら反射する光が旅人に安らぎを与えた。旅人は目を閉じた。長旅に疲れた体はすぐにでも眠りにおちていきそうだった。水音が耳に心地好く響いていた。旅人はまどろみを楽しんだ。
 ――しかし、旅人の愉悦も長くは続かなかった。
「あなたは、この町は初めてですか?」
 旅人の頭上から、突然声があった。旅人は起き直って声の主を見た。色の白い、不健康そうな青年がそこには居た。
「……ええ。」
「そう。」
 青年はそれきり旅人に興味を失くしたように、ぼんやりと遠くに目をやった。旅人はその横顔に話しかけた。
「あなたもこの町は初めてですか?」
 青年は旅人の方は見ずに、頬にうっすらと微笑を浮かべた。
「――いえ、僕は――」
 青年は微笑を消さぬまま、何か考えているようだった。
「僕はここに住もうかと思っているんですよ。良い町でしょう?」
「ええ、そうですね。」
 旅人は応えて、再びベンチの上に横になった。眠りはやさしく旅人を包んだ。

2011年3月31日木曜日

芸術は無力か?

	
 東日本を襲った大規模な地震から二週間以上経ちました。
 時々、思うのです。こんな危機的な状況があると思うのです。芸術は無力ではないか――と。
 芸術で腹は膨れません。芸術で暖はとれません。芸術で雨風はしのげません。芸術で離れていく魂を繋ぎとめることはできません。今、被災された人々を救うのは、食料、家屋、医療、等の即物的な力であり、決して芸術ではありません。愛でもありません。愛で地球は救えません。愛で地球を救おうとしている方々は、無理矢理つくった「感動」で金集めをしているに過ぎません。金が地球を救うのです。被災者を救うのです。愛だけでは無理なのです。鶴を千羽折ろうが万羽折ろうが、誰も救えません。
 だから、思うのです。芸術は無力ではないか。歌手がチャリティーコンサートをしたりします。それもやはり間接的なもので、歌が直接被災者を救っているわけではありません。被災地では、歌よりも本よりも絵よりも必要とされるものが沢山あるに違いありません。
 衣食住足りて、はじめてそこに芸術の必要性がでてくるのかも知れません。――でも、一生芸術を必要としない人も、また、一生芸術を理解しない人も、います。芸術は人生の余技に過ぎないのか――そんなことを考えたりします。が、その芸術の為に一生を捧げる人がいるのもまた、事実です。
 今現在も被災地の人々は辛い生活を強いられているでしょう。そうしてまた、これからの生活もまた、楽なものではないでしょう。茨の道を痛みに耐え、歯を食いしばり、一歩いっぽ歩を進めるとき、傍らにそっと寄り添っている――それが芸術の力じゃないか?

 違うか? どうだろう?
 あなたはどう思う?

2011年3月6日日曜日

「死人」

	
 ある村を、男が訪れた。その、村は大嵐にみまわれ、村人の多くが原因不明の病に侵された。農業を主な生業としている村人たちは、病人の看病におわれながら、田畑のことを心配していた。が、翌日も嵐はおさまらなかった。作物はほとんど全滅だった。
 男は村を訪れてから三日後、村を去った。すると、今まで続いていた大嵐がぴたりと止み、日を追うごとに増えていた疫病者も、増えることだけはなくなった。
 人々は男のことを、死神だ、疫病神だ、と噂し合った。男の容貌が奇怪だった所為もあろう。長身痩軀で、落ち窪んだ眼窩の奥の冷たい眼が鋭かった。黒ずくめの身なりの男は、確かに死の臭気を纏っていた。
 翌年よくとしの同じ日、また、男が村にやって来た。村は大嵐になり、多くの村人が疫病で死んだ。男は三日後、去って行った。
 そのまた翌年の同日、男は三度みたび村に現れた。村一帯は嵐で覆われた。老いた村長は恐るおそる、男に村を去るよう話をもちかけにいった。
「――いや、何、おまえさんが悪いと言ってるわけじゃない。ただ、二度も続いたとなると村の者も黙っておらんでな……。おまえさんは迷信だと嗤うかも知れんが――」
 村長はそこまで言って、男の顔にどこか見憶えのあるのを発見した。
「――おまえ、まさか……、ヘイルじゃないのか?」
 男は静かに頷いた。十数年前に、唯一の肉親である母を独り残して、村を出ていった若者だった。今日この日は、男の母の命日だった。
「すまんが、村がこういう状況だ。すぐにでも村を出てくれんか。」
 村長は、昔の面影をほとんど失った男に、深く頭を下げた。今日が男の母の命日だとは、知る筈もなかった。
 男は黙って頷くと、村を出た。そのあとを、一人の少年が男に気づかれぬよういて行った。二年前、少年は、両親と妹を疫病で失くしていた。少年は頃合を見計り、男に凄まじい勢いで接近した。そうして、男を後ろから刺した。が、男から血は流れなかった。男の体はどろどろと溶け出し、少年の腕にまとわりついた。男はそのまま完全に溶け、塗れた地面と同化してしまった。
 いつしか嵐もおさまっていた。

2011年3月1日火曜日

	
 今日、三月一日は芥川龍之介の誕生日です。
 一八九二年三月一日、辰年辰月辰日辰刻に生まれたので、龍之介と名付けられたそうです。芥川龍之介の出生には複雑な家庭の事情が絡みますが、何だかゴシップ記事のようなので、ここでは省きましょう。
 芥川龍之介といえば、「羅生門」が有名ではないでしょうか。教科書で読んだ方も多いはずです。黒澤明の同名の映画もあります。話の筋としては同じく芥川の書いた「藪の中」と併せたものですが。「蜘蛛の糸」や「杜子春」などの童話も教科書で読んだことがあるかも知れません。
 教科書で読む小説というのは、大概、面白くありません。教科書に載る小説が面白くない、というわけではありません(本当に面白くない小説が載っていることも多々ありますが……)。あのくだらない授業がおそろしくつまらないものにしているとしか考えられません。定められた読み方を強要されて面白いわけがない。まあ、授業なんて大抵つまらないものですが……。
 そんな学校で習う芥川龍之介から離れて、一人の作家として芥川龍之介の小説を読んでみると、違った趣を感じるかも知れません。


 文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加へてゐなければならぬ。

              ――「侏儒の言葉」

  芥川はそんな言葉を残しています。同輩に、あまり文に凝りすぎるな、と忠告を受けたこともあるそうです。が、芥川自身は必要以上に文に凝っているつもりはない、と書いています。芥川の文体は、初期の頃と晩年ではだいぶ違うものですが、おそらく文章に対する姿勢は一貫したものであったことでしょう。彼は短文を基調に、うつくしく整った文を書きました。初期は様々な装飾を凝らしながら、晩年は簡潔に言葉を研ぎ澄ましながら。芥川の文章は密度が濃いもので、書き飛ばしているような文はほとんどありません。彼が長編小説をものにできなかったのも頷けます。
 現代の小説にはあまり見ることのできない、その美しい言葉を、芥川龍之介を通じて読んでみてはどうでしょうか。

2011年2月24日木曜日

「弾丸」

	
 葬列は続いていた。
 一瞬刹那の自分の列。過去の僕はその直前の過去の僕を、それぞれ弔っている。
 その列の全て、過去の自分。一度は確かに僕自身だった筈なのに、みんな他人のように遠い記憶。
 闇の中、死人の顔をした僕の過去が一列に延々と続いている。うつむきがちに、みな互いに聯関れんかんの無い顔をして、真直な列を乱しはしない。僕は最後尾に立ち、次々と生まれては死の列に加わる僕自身の背をみつめる。
 彼らは僕を憎んでいるだろう。無為の生活の中に埋もれながら、もがこうともしない僕を。他人ばかりか自分をも偽り、信じもできない理由をつけては己を正当化しようとしている僕を。自らを卑下し苦しみ続ければ、やがて免罪符が与えられると願っているような僕を。
 ――しかし、彼らは振り向きもせずに過去の自分に小さな白い花を添える。涙ひとつ流すでもなく、声ひとつ洩らすでもなく、それがまるで宿命のように自身の過去にこうべを垂れる。
 僕の順番はやってこない。こうしている間にも、僕は一瞬いっしゅん過去になっていく。
 ――闇の中に何かが閃いた。
 と思った瞬間、僕は口からごぼりと血を吐いた。胸からも鮮血が溢れていた。右手を傷口にねじ込み、僕を傷つけたものを探る。それは銀の弾丸だった。
 僕は膝折れ再び血を吐いた。
 過去の僕は一斉に振り返る。その眼はどれも冷たい光を湛えていた。まるで手の中の弾丸のように―― 

2011年2月19日土曜日

「ある晴れた日に」

	
「綺麗ですね。」
 思いがけず近くで声がした。わたしは振り返って声の方を見た。細身の男が立っていた。やわらかな風に男の前髪が揺れた。
「えっ…そんな……」
「いえ、湖ですよ。湖がきれいだ。」
 確かに、男はわたしの方ではなく、湖を見ていた。そのまま数歩あるいて、わたしの横に並んだ。
 わたしは、それでなくても羞恥に紅く染まっていた頬を別の羞恥で紅くし、俯いた。
「――冗談です。」
 男は笑い声に言った。
 わたしは何も言い返せず、そっと男の横顔を窺った。男はやはり湖を見ていた。が、その頬にはうっすらと羞ずかしそうな笑顔が浮かんでいた。
「あなたのように綺麗な人に会ったのは初めてです。」
 表情からは笑いが消え――それでもやはり、男はわたしではなく湖を見ていた。
「――当然です。あなたに会ったのは初めてだから、当然です。『あなたのように綺麗な人』は、あなたしか居ませんから。言葉の修辞につりこまれてはいけません。」
 男の顔には再び微笑が浮かんでいた。
 わたしはどうするべきか迷った。が、何をどうするべきなのかは、わたし自身判然としなかった。
 不快――というより、当惑だった。
 急に、男はわたしの方を見て、真直に両の瞳をわたしに向けた。わたしが見返しても、男の視線がぶれることはなかった。寧ろ、わたしが彼の眼から視線を外せなくなっていた。穏やかに沈黙した眼だった。
「でも――、湖もきれいだとは思いませんか?」
 彼はそう言うと、あっさりと視線を湖に移した。
 湖面は太陽の光を反射して、僅かな波に静かにきらめいていた。きれいだった。
 わたしは黙ったまま、湖を眺めた。そうして、彼に何か言いたい衝動を感じた。
「……もしかして…あなたは――バカですか?」
 怒気のない、落ち着いた声でわたしは言った。
「よくわかりましたね。」
 彼は笑った。わたしも一緒になって笑っていた。湖がきらきらと光りながら揺らいでいた。

2011年2月13日日曜日

「墓標」

	
「僕は死んじゃうの?」
 少年は切ない眼で彼女を見上げた。ベッドに横たわった少年の体は、いかにも小さかった。
 窓の外では無数の銀杏の葉が、秋の風に吹かれ舞っていた。地面の枯葉を風の撫でる音が、かさかさと聞こえた。
「大丈夫。心配ないよ。」
 微笑みながら、彼女は少年の頭を優しく撫でた。が、彼女は上手く微笑むことができたのか不安でならなかった。
 少年は彼女の言葉に微笑み返しながら、自分の死期の近いことをぼんやりと思った。だが、彼はそれに全く気づかないふりをして、回りながら落ちる黄金色葉を無邪気に見ていた……。
 病室を出た後、彼女は白い壁にもたれ、下手な嘘しかつけぬ――少年を信じさせることもできぬ――自分に涙を流した。
 少年は雪の降るのを病室の中で見た。が、雪の積もるのは見ることなしに、ひっそりと息を失くした。
 近くの寺の片隅に、墓と呼ぶには余りに粗末な、小さな石碑がたった。そこには一本の道が通じていた。誰かが踏み固めた雪の跡だった。その道はどんな吹雪にも埋もれることはなかった。
 白い道が寸毫も乱れることなく今日も続いている。

2011年2月12日土曜日

「夢に住む人」

	
 男は病院のベッドの上で、静かに目を覚ました。百年の眠りから覚めたように、静かな目覚めだった。誰か男の左手を握る者があった。それは付き添いの女の手だった。男が目覚めた為に、知らずに握る手に力が加わっていた。
 男はそっと女の顔を見上げた。不眠の為か、涙の為か、目が赤く充血していた。女は眼が合うと、無理に笑って見せた。
「どのくらい寝ていた?」
 男は天上に視線を移しながら訊いた。
「まる一日と少し。」
 女は短く応えた。声が微かに震えていた。
「……夢を……、――夢をみたんだ。」
 天上を向いたまま、男の目はゆっくりと閉じられ、完全に閉じきられる寸前でその動きは止まった。
「子供の頃の夢だ。まだ世界の理を知らない、永遠を信じるとも意識せずに信じていた、幼い頃の夢だ。」
 その夢が今、眼前にひらけているような眼つきをして、男は続けた。
「純粋な歓びや哀しみが繰り返され、明日あすを考えない日々が果てることなく続いていく……。一心に泣き、素直に笑っていた。……
 やがて自分も大人になるとも知らずに、甘美な日常が延々と続く……。鎖じた環の中を巡るように、黄金の車輪がやわらかな光をふりまき、うつくしい調べを奏でる。……」
 男の眼がうっとりと恍惚に満ち、頬には微笑さえ浮かぶ。女は声も無く涙を流しだした。
「――だけど、それも永遠には続かない。車輪は速度を緩め、徐々に歪み、朽ちていく。車輪は動きを止め、永遠は崩れ去る……」
 男の目が完全に閉じられた。女は両の手で男の左手を、強く、握り締めた。
「君には本当に迷惑をかけたね。」
 女は頭を左右に振った。声はでなかった。髪が乱れるほどに、頭を振った。
 しかし、目を閉じた男には見えなかった。

Blog