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2012年10月24日水曜日

宮本浩次を想う

	
 今月初めに、宮本浩次が左耳に突発性感音難聴を発症した、という知らせを発見した時は、なんだか呆然としてしまいました。バンドマンとしては職業病とでもいうのか、珍しいわけでもないようですが、歌わぬ宮本浩次というものを想像して、哀しいというか、寂しいというか、やるせないというか、……まあ、単純に落胆したわけです。
 宮本さんが話している姿を見たことのある人は、エキセントリックな話しぶりと、話の幹を逸れて主題が枝葉へと移っていく話術を御存知かもしれませんが、僕は思うのです。彼は話すだけでは足りないのだ、と。歌わなければ「話す」ことができないのだ、と。表現者はそれぞれの手段を用いて、他者に「話し」かける。己の心の奥底から相手の心の奥底へと響かせる為に。話すだけではもどかしい。伝わらない。彼らはそれぞれの手段でなければ、本当の意味で「話す」ことができない。画家は絵画で話し、映画監督は映画で話し、小説家は小説で話す。宮本浩次が歌うことで「話す」ように。
 いわゆる表現者の全てが、こういった「話せない」人たちであるとは決して思いません。話すことで「話す」ことができない一部の人びとに、僕は誠実さを見、親しみを感ずるのです。
 幸いにも耳の調子は快方に向かっているようで、十月十四日に日比谷野外音楽堂にて、一時間余りのコンサートを行ったようで、ひと安心です。外リンパ瘻という病気は、耳の状態がどれだけ回復するのかわかりませんが、宮本さんにはこれからも歌い続けてもらいたいものです。

「君」

	
  毎日、君を探していた。君の髪を、君の腕を、君の脚を、君の耳を、君の唇を、君の瞳を、…………
 だけど、誰にも、君をみつけることができない。誰も彼も、君とは別人だった。君の一部分すらみつからない。君はどこにもいなかった。
 けれども毎日探していた。見る人全てに、君を探していた。目の前を幾人が過ぎただろう。君が現れることは無い。百人や千人、一万人や一億人、どれだけの人がこの眼に映っても、ただひとり、君がいなければそれが何だというのだろう。淀みなく繰り返される日々の中で、全てが色を失い、流れ去って行く。得るものも失うものも、何ひとつありはしない。無意味な時間だけが積み重なっていく。
 想い焦がれてもこがれても、君は現れない。朧げな幻影が、夢にも現にもゆらめいて。確かな像をむすびかけたと思った瞬間、幻影は儚く崩れ去り。もの憂い生活が重く覆いかぶさる。こんな生活に堪えていられるのは、君の存在で。遠い君の存在で。
 君がいなければどんなにか苦しいだろう。
 君がいなければどんなにか楽だろう。
 君の姿を見ることはできなくとも、君は確かに存在していて。手の届かぬところに確かに存在していて。指先が掠めることも未だ叶わず。徒らなこの生命はながれ。
 いつか君に逢うその時を――その時だけを胸に、今日も、どうにか、生きている。刻々と、かぼそい命の灯火は費やされ。時に己の存在を忘れかけ。それでも君をどこかに感じていて。
 君の笑顔が欲しくてほしくて。いつか逢えたらその時は、この無様な姿を笑ってはくれまいか。何も為せない、この滑稽な男を笑ってはくれまいか。君の為に、どれだけの道化にでもなろう。君の笑顔が欲しくてほしくて、さ。
 君を探している。
 今日も、君はみつからない。
 不安と焦燥懊悩の中、君を探して。君を探し続けて。どうにか、今日も、生きている。君がいるから、どうにか、生きて、いる。不可思議で不可解な、この漠とした世界の中で、意識を微かに繋ぎ止めていられるのは、君というものがいるから。
 来るべき日を待ちながら、無為の生活は続けられ。「来るべき日」は来るのだろうか?――心の寂しさ、暮れ残り。

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