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2011年3月31日木曜日

芸術は無力か?

	
 東日本を襲った大規模な地震から二週間以上経ちました。
 時々、思うのです。こんな危機的な状況があると思うのです。芸術は無力ではないか――と。
 芸術で腹は膨れません。芸術で暖はとれません。芸術で雨風はしのげません。芸術で離れていく魂を繋ぎとめることはできません。今、被災された人々を救うのは、食料、家屋、医療、等の即物的な力であり、決して芸術ではありません。愛でもありません。愛で地球は救えません。愛で地球を救おうとしている方々は、無理矢理つくった「感動」で金集めをしているに過ぎません。金が地球を救うのです。被災者を救うのです。愛だけでは無理なのです。鶴を千羽折ろうが万羽折ろうが、誰も救えません。
 だから、思うのです。芸術は無力ではないか。歌手がチャリティーコンサートをしたりします。それもやはり間接的なもので、歌が直接被災者を救っているわけではありません。被災地では、歌よりも本よりも絵よりも必要とされるものが沢山あるに違いありません。
 衣食住足りて、はじめてそこに芸術の必要性がでてくるのかも知れません。――でも、一生芸術を必要としない人も、また、一生芸術を理解しない人も、います。芸術は人生の余技に過ぎないのか――そんなことを考えたりします。が、その芸術の為に一生を捧げる人がいるのもまた、事実です。
 今現在も被災地の人々は辛い生活を強いられているでしょう。そうしてまた、これからの生活もまた、楽なものではないでしょう。茨の道を痛みに耐え、歯を食いしばり、一歩いっぽ歩を進めるとき、傍らにそっと寄り添っている――それが芸術の力じゃないか?

 違うか? どうだろう?
 あなたはどう思う?

2011年3月6日日曜日

「死人」

	
 ある村を、男が訪れた。その、村は大嵐にみまわれ、村人の多くが原因不明の病に侵された。農業を主な生業としている村人たちは、病人の看病におわれながら、田畑のことを心配していた。が、翌日も嵐はおさまらなかった。作物はほとんど全滅だった。
 男は村を訪れてから三日後、村を去った。すると、今まで続いていた大嵐がぴたりと止み、日を追うごとに増えていた疫病者も、増えることだけはなくなった。
 人々は男のことを、死神だ、疫病神だ、と噂し合った。男の容貌が奇怪だった所為もあろう。長身痩軀で、落ち窪んだ眼窩の奥の冷たい眼が鋭かった。黒ずくめの身なりの男は、確かに死の臭気を纏っていた。
 翌年よくとしの同じ日、また、男が村にやって来た。村は大嵐になり、多くの村人が疫病で死んだ。男は三日後、去って行った。
 そのまた翌年の同日、男は三度みたび村に現れた。村一帯は嵐で覆われた。老いた村長は恐るおそる、男に村を去るよう話をもちかけにいった。
「――いや、何、おまえさんが悪いと言ってるわけじゃない。ただ、二度も続いたとなると村の者も黙っておらんでな……。おまえさんは迷信だと嗤うかも知れんが――」
 村長はそこまで言って、男の顔にどこか見憶えのあるのを発見した。
「――おまえ、まさか……、ヘイルじゃないのか?」
 男は静かに頷いた。十数年前に、唯一の肉親である母を独り残して、村を出ていった若者だった。今日この日は、男の母の命日だった。
「すまんが、村がこういう状況だ。すぐにでも村を出てくれんか。」
 村長は、昔の面影をほとんど失った男に、深く頭を下げた。今日が男の母の命日だとは、知る筈もなかった。
 男は黙って頷くと、村を出た。そのあとを、一人の少年が男に気づかれぬよういて行った。二年前、少年は、両親と妹を疫病で失くしていた。少年は頃合を見計り、男に凄まじい勢いで接近した。そうして、男を後ろから刺した。が、男から血は流れなかった。男の体はどろどろと溶け出し、少年の腕にまとわりついた。男はそのまま完全に溶け、塗れた地面と同化してしまった。
 いつしか嵐もおさまっていた。

2011年3月1日火曜日

	
 今日、三月一日は芥川龍之介の誕生日です。
 一八九二年三月一日、辰年辰月辰日辰刻に生まれたので、龍之介と名付けられたそうです。芥川龍之介の出生には複雑な家庭の事情が絡みますが、何だかゴシップ記事のようなので、ここでは省きましょう。
 芥川龍之介といえば、「羅生門」が有名ではないでしょうか。教科書で読んだ方も多いはずです。黒澤明の同名の映画もあります。話の筋としては同じく芥川の書いた「藪の中」と併せたものですが。「蜘蛛の糸」や「杜子春」などの童話も教科書で読んだことがあるかも知れません。
 教科書で読む小説というのは、大概、面白くありません。教科書に載る小説が面白くない、というわけではありません(本当に面白くない小説が載っていることも多々ありますが……)。あのくだらない授業がおそろしくつまらないものにしているとしか考えられません。定められた読み方を強要されて面白いわけがない。まあ、授業なんて大抵つまらないものですが……。
 そんな学校で習う芥川龍之介から離れて、一人の作家として芥川龍之介の小説を読んでみると、違った趣を感じるかも知れません。


 文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加へてゐなければならぬ。

              ――「侏儒の言葉」

  芥川はそんな言葉を残しています。同輩に、あまり文に凝りすぎるな、と忠告を受けたこともあるそうです。が、芥川自身は必要以上に文に凝っているつもりはない、と書いています。芥川の文体は、初期の頃と晩年ではだいぶ違うものですが、おそらく文章に対する姿勢は一貫したものであったことでしょう。彼は短文を基調に、うつくしく整った文を書きました。初期は様々な装飾を凝らしながら、晩年は簡潔に言葉を研ぎ澄ましながら。芥川の文章は密度が濃いもので、書き飛ばしているような文はほとんどありません。彼が長編小説をものにできなかったのも頷けます。
 現代の小説にはあまり見ることのできない、その美しい言葉を、芥川龍之介を通じて読んでみてはどうでしょうか。

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