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2012年11月25日日曜日

「サボてん」

	
  俺は無職の暇をもてあまして、近所の公園をぶらついていた。もう無職になってから二月以上になる。その間、何をするでもなく、ほとんど毎日この公園にやって来た。ぼんやり煙草を喫いながら歩いたり、ベンチに腰掛けたりするだけである。何か働く当てがあるでもなければ、何か働こうという気もあるでない。これからどうするのか考えるのにも飽いて、無為な日々を重ねている。面倒くせぇなぁ、と時折独り呟くのが癖になっていた。
 これじゃぁ隠居した老人みたいだな、とも思うのだが、いかんせん昨今の老人は元気がある。仕事から解放されるや否や、趣味に耽溺したり習い事を始めたりする。余生を謳歌している。――いや、余生と言うのも失礼な話しかも知れない。とにかく今の俺は老人とも呼べない。言うなれば、癈人に近い。
 癈人は今日もきょうとて、生産性の全く無い時間を公園で過ごしている。毎日、昼日中から若い男が延々とベンチに座っている姿とは奇怪であろう。俺は公園のなるべく人の少ない隅で、じっとしている。――ああ、あそこに居る老人は、俺が思い描いていた昔ながらの老人だ。片手に杖をつき木樹や小鳥を眺めている。穏やかな表情でゆったりと時の流れに身を任せている。俺はあの老人以下だ。自然を心静かに愛でる境地まで、到底辿り着けそうに無い。
 煙草がきれた。腹も減った。コンビニにでも行くとしよう。

 俺がさっきまで座っていたベンチに戻ると、見知らぬ一人の男が座っていた。男の前には、小さな鉢植えが沢山のっている台があった。鉢植えはすべてサボテンだった。両手で包み込めるぐらいの小さなサボテンだった。台の端には『幸福のサボテン ¥500(税込)』と書かれた立て札が置いてある。怪しいことこの上ない。だが、俺は良い暇つぶしができたと思い、声をかけることにした。
「幸せになれるんですか? これを買うと。」
「はい、なれます。」
 男は柔和な笑顔で応えた。一瞬の躊躇もない。胡散くさいことこの上ない。
「――ただし、花が咲いたら、です。」
「花が咲いたら?」
「はい、花が咲いたら。」
「――隣、良いですか?」
「はい、どうぞ。」
 男は笑顔のまま言った。俺と年齢は同じぐらいだろう。勤め人という感じはしない。これを生業としているのだろうか。こんなもんで食えるとは思えない。いかがわしさ全開だ。
「――おひとついかがですか? 一つ五百円です。」
「…………。」
 果たして買う奴がいるのだろうか。
「このサボテンは一生に一度だけ、花を咲かせます。その時、持ち主に幸福が訪れます。それがいつなのか、定まっているものでもありません。買ってすぐに花を咲かせるかも知れませんし、永遠に咲くことがないかも知れません。このサボテンは愛情をもって育てると、花を咲かせます。」
「それじゃあ、あなたはこれだけサボテンを持っているから、いつも幸せでしょうね。」
 俺は小さな悪意を閃かせた。が、男は少しも動じる気色を見せなかった。
「いいえ。見て下さい、これだけあるのに一つも花を咲かせているものはありません。きちんと愛情をそそがなければ花は咲かないのです。――私はひとりの女性しか愛せない性質なもので……。」
「スケベそうな顔をしてよく言う。」
 ふたりは共に笑った。公園に哄笑が響いた。欺されるのも悪くない。――いや、欺すとか欺されるとか、そんなことどうでも良い。
「――僕もひとりの女しか愛せない性質でしてね、欲しいのは欲しいが……金が無いんです。無職なんですよ。辛いですね、無職っていうのは。五百円ですら気軽に払えない。――だから、この弁当と交換でどうです?」
 俺はコンビニの袋から、温めてもらった四九九円の弁当を取り出した。まだ冷めてはいない。
「――良いでしょう。ちょうどお腹が空いていたところです。お好きなものを選んで下さい。」
 似たようなサボテンの群れの中から、俺はひとつ、感覚的に選び出した。理念なんて要らない。女もサボテンもフィーリングさ。
「あまり水をやり過ぎないようにして下さい。水を与えることが愛情ではありません。ただ腐らせてしまうだけですから。
 あなたに幸福が訪れるように。」
 男は何か祈るような真似をした。俺たちは別れた。
 真剣にこのサボテンを育ててみようと思った。花が咲くかどうかなんてわかりはしない。それでも本気で育てよう。
 空腹と引き換えに、大切なものを手に入れたのかも知れない。



 その後、サボテンが花を咲かせたかどうか?――
 そんなことどうだって良いじゃないか。俺がここに書き記すことじゃ無い。

2012年10月24日水曜日

宮本浩次を想う

	
 今月初めに、宮本浩次が左耳に突発性感音難聴を発症した、という知らせを発見した時は、なんだか呆然としてしまいました。バンドマンとしては職業病とでもいうのか、珍しいわけでもないようですが、歌わぬ宮本浩次というものを想像して、哀しいというか、寂しいというか、やるせないというか、……まあ、単純に落胆したわけです。
 宮本さんが話している姿を見たことのある人は、エキセントリックな話しぶりと、話の幹を逸れて主題が枝葉へと移っていく話術を御存知かもしれませんが、僕は思うのです。彼は話すだけでは足りないのだ、と。歌わなければ「話す」ことができないのだ、と。表現者はそれぞれの手段を用いて、他者に「話し」かける。己の心の奥底から相手の心の奥底へと響かせる為に。話すだけではもどかしい。伝わらない。彼らはそれぞれの手段でなければ、本当の意味で「話す」ことができない。画家は絵画で話し、映画監督は映画で話し、小説家は小説で話す。宮本浩次が歌うことで「話す」ように。
 いわゆる表現者の全てが、こういった「話せない」人たちであるとは決して思いません。話すことで「話す」ことができない一部の人びとに、僕は誠実さを見、親しみを感ずるのです。
 幸いにも耳の調子は快方に向かっているようで、十月十四日に日比谷野外音楽堂にて、一時間余りのコンサートを行ったようで、ひと安心です。外リンパ瘻という病気は、耳の状態がどれだけ回復するのかわかりませんが、宮本さんにはこれからも歌い続けてもらいたいものです。

「君」

	
  毎日、君を探していた。君の髪を、君の腕を、君の脚を、君の耳を、君の唇を、君の瞳を、…………
 だけど、誰にも、君をみつけることができない。誰も彼も、君とは別人だった。君の一部分すらみつからない。君はどこにもいなかった。
 けれども毎日探していた。見る人全てに、君を探していた。目の前を幾人が過ぎただろう。君が現れることは無い。百人や千人、一万人や一億人、どれだけの人がこの眼に映っても、ただひとり、君がいなければそれが何だというのだろう。淀みなく繰り返される日々の中で、全てが色を失い、流れ去って行く。得るものも失うものも、何ひとつありはしない。無意味な時間だけが積み重なっていく。
 想い焦がれてもこがれても、君は現れない。朧げな幻影が、夢にも現にもゆらめいて。確かな像をむすびかけたと思った瞬間、幻影は儚く崩れ去り。もの憂い生活が重く覆いかぶさる。こんな生活に堪えていられるのは、君の存在で。遠い君の存在で。
 君がいなければどんなにか苦しいだろう。
 君がいなければどんなにか楽だろう。
 君の姿を見ることはできなくとも、君は確かに存在していて。手の届かぬところに確かに存在していて。指先が掠めることも未だ叶わず。徒らなこの生命はながれ。
 いつか君に逢うその時を――その時だけを胸に、今日も、どうにか、生きている。刻々と、かぼそい命の灯火は費やされ。時に己の存在を忘れかけ。それでも君をどこかに感じていて。
 君の笑顔が欲しくてほしくて。いつか逢えたらその時は、この無様な姿を笑ってはくれまいか。何も為せない、この滑稽な男を笑ってはくれまいか。君の為に、どれだけの道化にでもなろう。君の笑顔が欲しくてほしくて、さ。
 君を探している。
 今日も、君はみつからない。
 不安と焦燥懊悩の中、君を探して。君を探し続けて。どうにか、今日も、生きている。君がいるから、どうにか、生きて、いる。不可思議で不可解な、この漠とした世界の中で、意識を微かに繋ぎ止めていられるのは、君というものがいるから。
 来るべき日を待ちながら、無為の生活は続けられ。「来るべき日」は来るのだろうか?――心の寂しさ、暮れ残り。

2012年9月10日月曜日

「銃」

	
  最終の電車に揺られていた。僕の乗っている車両には、僕の他に誰も居なかった。正面の窓から見える夜の光を、ぼんやりと眺めていた。
 電車が速度を落とし、止まった。ホームに人影は少ないようだった。僕の乗る車両には、小太りの中年の男が入って来た。いかにもサラリーマン然とした男だった。厚いコートを着て、寒そうに両手をポケットに突っ込んでいた。男は、空いた車内にも拘らず、少しだけ間をおいて、僕の左隣に座った。
 電車が静かに稼働音を響かせながら、再び動きだした。僕はやはり、窓の外を眺めていた。
「あなた、銃とは素晴らしいものだと思いませんか?」
 速度が安定した頃、男は突然言った。僕が何の反応も示さぬうちに、男は続けた。
「銃は魅力的だ。極めて魅力的だ。多くの人間がその魅力に取憑かれる。本物の銃を撃ったことがあるなら、尚更だ。
 あなたは、なぜ銃があんなに魅力的か、わかりますか? ――造形の美しさ? ――メカニカルな動き?
 ――勿論それらの要因もあるでしょう。しかし銃をあんなにも魅力的にしているのは、『力』です。あの圧倒的な破壊力です。たとえ非力な者でも引き金をひくだけで、凶暴な力を得ることができるのです。どんなに腕力が強い者が相手でも、一発で致命傷を与えられる力があります。
 これは魅力的だ。自分が偉くなったような気になれる。これほど素晴らしいものは無い。
 銃を持てば、その力を試してみたくなる。止まっている標的に狙いを定める。撃ってみれば、その反動と轟音に胸が熱くなる。命中率が高まるにつれ、動いているものが撃ちたくなる。……
 それは、鳥や犬猫のありふれた小動物から始まるだろう。そうして、もっと支配慾を満たすことのできるものに対象は移っていくだろう。――そう、例えば人間のように――」
 男は僕を凝視していた。その眼は、サラリーマン然とした男の眼では無かった。瞬時に僕は理解した。そして、すぐさまポケットの中に隠し持っていた銃を男に突きつけた。――が、同時に男もまた銃を僕に突きつけていた。
「撃つか、ガキ? てめぇはもう逃げられやしねぇよ。たかだか拳銃一丁で偉くなったつもりか? 警察をなめ――」
 僕は引き金をひいた。男は額を穿たれて後ろに倒れた。男の持つ銃が窓ガラスに向けて撃たれた。男はそれきり動かなかった。
 車内は、男の乗る以前同様、静かになった。砕け散ったガラスの破片と男の死骸の他は、何ら変わるところが無かった。
 上着のポケットに銃ごと手を突っ込み、僕は俯きがちに別の車両に続く扉を開けた。右手に持つ銃の重みに、漲る力を感じながら。そうしてまた、これから来るべき状況に、激しく心を躍らせながら――

2012年8月15日水曜日

「夜を駆る」

	
  仕事帰りの道を歩いていた。もう深夜に近い時間だった。外灯も疎らで、月も出ていない、暗く細い夜道だった。星の一つさえ見えなかった。人影もまた、なかった。
 俺は煙草を片手に道を歩いて行った。とにかく眠りたかった。車も通らない道を足早に歩いた。視界の隅で、煙草の先の紅い焔が闇を規則的に飛んでいた。
 気がつくと、前方に男が歩いていた。俺は反射的に歩速を緩めた。夜目が効かない俺にはしっかりとは見えないが、背恰好と歩き方から確かに男だと知れた。男は近づいて来るのではなかった。寧ろ遠ざかっていた。俺はまた元の通り足を速めた。
 男との距離は近づきもしなければ、また、遠ざかりもしなかった。俺と男との歩く速さは奇妙なほど同じだった。俺は意識的に、速く、あるいは遅く、歩いてみた。が、気がつくといつの間にか男と同じ速さで歩いているのだった。のみならず、男は俺の前を歩き続けた。まるで先導するように、俺の住むアパートへの道すじを正確に歩いて行った。男の足に迷いがあるようには見えなかった。他に道を歩く人はなく、車もまた通らなかった。
 俺は疲れていた。早く眠りたかった。男のことは気にかけないことにした。普段は何も考えずに擦過して行く家並に、注意を紛らわせたりした。が、男はいつまで経っても俺の前を歩いていた。
 次の四つ角を右に折れればアパートが見えるという所で、男は不意に立ち止まった。俺もまた立ち止まっていた。男は何をするというでもない。ただ、直立不動に立ち止まっていた。
 俺は二本目の煙草に火を灯した。もうすぐ眠ることができる。俺は歩きだした。男との距離が徐々に縮まる。が、男は毫も動かない。次第に、離れた外灯の微かな明かりに、男の姿がはっきりとしてくる。男は春先だというのに、重そうな黒っぽいコートを着ていた。背は高くもなければ低くもない。とりわけ痩せているという感じもしなければ、太っているという感じでもない。両手をだらりと体のわきに下げ、少し俯いている。年の頃まではわからない。しかし、さほど若いとは思われない。
 ――そんな観察をしているうちに、何気なく声をかければ聞こえるほどの距離まで近づいていた。俺の決して大きくはない足音も聞こえているのかも知れない。
 俺は今まで歩いていた道の右端から左端へと移った。男を通り越さなければ、我が陋屋へは着けない。俺は心もち足を速めた。男はやはり、動かない。
 そうして、あと数歩で男と横並びになる所まで来た。男は動かない。通り越しざまに、男の顔を盗み見てやろうと思っていると、男は突然走りだした。猛然と走りだした。
 俺も走りだしていた。猛然と走りだしていた。俺は啣えていた煙草を投げ棄てた。急速に紅い火が視界から消えた。代わりに、男の姿が視界の片隅に残った。が、俺は男の方に顔を向けている暇など無かった。
 四つ辻を真っすぐ駆け抜けた。眠るはずが、これでは遠ざかっている。しかし、俺は走り続けた。男もまた、俺の真横を走り続けた。
 疲れていた。俺は疲れている。今すぐ眠りたい。それをなぜ、こんなに必死で走っているのだ? もう息が上がっている。煙草で肺はとっくの昔にいかれている。元より体力などありはしないのだ。
 自らがまき起こす風が耳元をごうごうと抜けていく。荒い呼吸音が絶えない。それでも速度を緩めることはしなかった。俺の烈しい息づかいに重なって、もうひとつ、横あいから烈しい息づかいが聞こえる。それは男のものだった。あの男だって苦しいのだ。それでも俺に遅れることなく走っているではないか。視界の隅から男の姿が消えはしない。男がそれ以上、大きくなることも小さくなることも無い。
 俺は走り続けた。体中の酸素が抜け出ていくのがわかる。唇が痺れる。四肢の感覚も危うい。俺は走り続けた。薄暗い道を走り続けた。男と共に走り続けた。
 男は俺の横を走っている。男がどこへ向かっているかなど知らない。男に訊こうにも、声を出すだけの余裕も無い。男とて、応える余裕など無いだろう。だが、訊きたかった。
 俺は訊いた――訊こうとした。が、俺の口から出たのは問ではなく、叫びだった。何か不明確な、大きな叫び声だった。男もまた叫んでいた。
 何がなんだか、わからなくなっていた。

2012年6月18日月曜日

「雨の声」

	
 
 雨の中を、傘をさすでもなく、急ぐでもなく、濡れるがままに歩く。人びとは奇異の視線をちらと投げる。それに気づかぬふりで、真直を見て歩く。全身はずぶ濡れ。
 寒くて、寒くて、仕方がなくて、――しかし、なぜか笑いが込みあげてきて。雨が視界を塞ぐ。雨音に包まれているうちに、現実とはおよそ遠いどこかへと迷い込む。
 泣いても、雨が頬を撫でてくれる。声も雨音が鎮めてくれる。
 だから、雨の中、濡れるがままの人間を見ても、そっとしておいた方が良いのかも知れない。

 冷たくしっとりとした腕が首筋にからみつく。真白く、肌理のこまかい女の腕。そして、何か耳もとで囁く。聞き返そうとするのだが、雨の中の静寂が、口を噤ませる。もっと強く囁いてくれ――。本当は知っている。確かに、聞こえはしないが、知っている。
 ただ、確信が欲しいだけだ。何の役にも立たない、この愚者の確信が。
 そっと抱き寄せ、耳もとに囁く。女と同じ言葉を。一語いちごたがうことなく――――

2012年5月24日木曜日

「逃飛行」

	
 
 部屋の片隅に、裏返して置かれた一枚の絵。いつか自分が描いた一枚の絵。自分の手を通して魂を吹き込んだ一枚の絵。その絵を画架に据え、いちめん灰に塗り潰す。消えていく己の魂。震えながら魂を消していく。怖くて、哀しくて、でも、やらなければいけないような気がして。
 灰に塗り固められた、表情のないカンヴァスを画架に掛け、部屋を後にする。今はまだ描けない。しかし、いつの日か、あの無のカンヴァスに命を通わせることを信じながら――
 屋上の風が強い。見下ろす世界には現実感がない。自分が現実から離れているに過ぎないことをすぐに感じて、誰からか隠れるように、そっとうつむき、微笑を洩らす。
 喧噪が遠く聞こえる。天上の神々はこんな気分なのだろうか。ふと空を見上げると、ひと筋の飛行機雲が曳かれていた。――空も人間が支配してしまった。――
 飛ぼうと思って、ありもしない翼を大きく拡げ、身を空に躍らせる。体がとても軽い。心もとても軽い。
 空を飛んでいる――

2012年4月22日日曜日

「祈り人」

	
  彼は毎日祈っていた。が、彼は神をもたなかった。あらゆる神を、彼は信じなかった。
 村外れの崖の突端で、彼は祈った。人々は彼を変わり者として、誰も相手にしなかった。村の多くの人々は、神をもっていた。彼を異教徒と見る者さえいた。
 祈りは静かに行われる。祈る為の祭壇や道具があるわけではない。何か祈りの言葉を発するでもない。ただ、彼は静かに祈っていた。
 風がそよぎ、陽光が降りそそぎ、時が流れる。祈りは続けられる。
 ある日、旅人が彼の噂を聞き、興味を覚え、彼に会いに行った。彼は崖でやはり祈っていた。
「――あなたは、何を祈っているのですか?」
 遠慮がちに話しかけた。話しかけても良いものかどうか、迷った為だった。それほどまでに、彼には何か、漂っていた。
「わかりません。考えたこともありません。」
 彼は静かに応えた。
「では、何故祈っているのですか?」
「祈らずにはいられないからです。」
 旅人は祈った。彼と共に祈った。何に対して、何を祈っているのかわからなかった。が、祈らずにはいられなかった。

2012年3月25日日曜日

「奇術師」

	
 手から飛び出た花に、人々は驚きと賞讃の歓声を送った。花を出した本人は、得意満面、嬉しくて仕方がならぬ。次々と両手から花は咲き乱れ、足元は花で満たされる。――しかし、哀しいかな、花は次つぎと枯れていく。
 もう早や、人々の歓声など聞こえない。必死に花をそれでも出し続ける。もうどうすることもできぬのだ。止めたところで枯れた花に埋もれるだけに過ぎぬ。
 ――花を、――花を。
 憑かれたように、手から花を出す。誰も喜ばぬ、自らも喜ばぬ。
 ――花を。
 何がなんだか、わけもわからぬ。

 花を――――

2012年3月11日日曜日

「薬男」

	
 彼は両親の死を待っていた。しかしそれは、遺産が目当てでもなければ保険金が目当てでも無かった。かといって、憎しみを抱いているわけでも無かった。寧ろ、彼は両親に卑屈なくらいの敬慕を感じていた。彼の人生は不孝そのものと言ってもよかった。が、それでも両親は彼に親らしい愛情を与えることを止めなかった。彼はその為に、どうにか両親よりは長く生きようと思った。
 が、彼は既に生活欲を失いつつあった。
 食慾は無く、常人の一食分にも満たない量をなんとか少しずつ口にしていた。彼は足りない栄養を、サプリメントと呼ばれる錠剤で補っていた。ほとんど食事量と変わらぬだけの多さだった。どちらが「補助」なのか、わからないぐらいだった。
 彼はまた不眠にも悩まされた。彼は薬に頼って眠りを得ようとした。しかし、薬の効き目は徐々に薄くなり、使用する量はだんだん増えていった。彼は夢と現の中で、鈍重な亀のように生活を続けていった。
 毎朝仕事に出かけ、すぐに家に戻ると、眠れもせぬベッドの中に潜り込んだ。何もしなかった。世の中の動きになど関心がなかった。無残な殺人事件が起きようと、大規模な地震が人々を襲おうと、無意味な戦争で多くの血が流れても、最早彼にはどうでも良いことだった。全てが彼にはもの憂い、遠い出来事だった。
 彼はじりじりと衰弱しだした。非合法な薬を摂取することで、なんとかその日その日を過ごしていた。彼は薬に酔いながらも、自分を見失うことは無かった。恍惚の直中にいながら、冷めきった眼で彼自身をみつめていた。
 何度も死を想った。彼が死ぬことで両親は解放されるのではないかと思った。彼が生きていることは、寧ろ両親にとって重荷なのではないかと思った。
 ――しかし、彼は死ななかった。
 両親は幸か不幸か、不吉な病になど侵されていなかった。健康と言って差し支えなかった。彼はただ、じっと両親の死を待っていた。いつ来るとも知れぬ、来るべき日を待っていた。薬浸けの体だけを恃みにして――

一年

	
 東日本大震災から一年が経ちました。――もう一年、――まだ一年、どちらとも思える月日が経ちました。地震に伴う津波、そして原発事故。大きく鋭く深い爪痕が今も残っています。あの震災以降、防災への意識が変わった方も多いでしょう。勉強代と考えるにはあまりにも大きな代償ですが。
 首都直下型地震が遠くない未来に起こる、という予測もあります。関東での震災と言えば、一九二三年の関東大震災が思い浮かびます。震災時、芥川龍之介は自宅に居ました。妻子と共に食事をした後、震災に遭ったようです。地震が起きると芥川は妻子をほうったまま、一人で家屋をとび出したそうです。遅れて子を連れて出てきた妻にそのことを詰られると、「いざとなると人間は自分のことしか考えないものだなぁ。」と応えたとか。芥川らしいといえば芥川らしい話です。彼自身は大きな被害を受けなかったようですが、震災についていくつの文章を残しています。震災の惨状、社会的混乱、芥川は冷徹な眼でそれらを受け止めていました。
 僕は、いざとなると自分のことしか考えられない人間、の一人ですが、理性もまた幸か不幸か、持ち合わせています。あの非常事態時、人間の醜さというものを垣間見ました。助け合い、絆、と正の面ばかり強調されますが、負の部分もしっかりと見なければなりません。人間なんてろくなもんじゃねぇ、と思いながら生物としてはそれが真当なのだとも思います。

 人間としても真当でありたい。

2012年2月22日水曜日

「蜘蛛の糸 ――尊彼陀の場合――」

	
     一

 ある日のことでございます。お釈迦様はひとり、極楽の池のほとりをお歩きになっていらっしゃいました。澄んだ池には赤や白、青や黄といった色も鮮やかな蓮の花が、それ自身美しい光を放つと同時に、馨しく清らかな芳香を絶え間なく漂わせております。辺りには、どこからか心地良い音色の音楽も流れているのでございます。
 お釈迦様はふと足をお止めになって、水面に浮かぶ蓮の葉の間から下の様子をご覧になりました。この池の下はちょうど地獄の底になっておりますから、限りなく澄んだ水を透きとおして、地獄の業火や、針の山や、獄卒の責苦にあう罪人の姿が、はっきりと見えるのでございます。
 しかし、お釈迦様のお眼にとまったのは地獄から延びる、一筋のきらきらと光る銀糸でございました。その銀糸をたどっていくと、そこのには地獄の蜘蛛が休みなく糸を紡いで、極楽へと差し延ばしております。
 お釈迦様がそうして刻一刻と延びて来る蜘蛛の糸をお見つめになっていらっしゃいますと、金や銀、金剛石や翠玉でつくられた輝かしい樹木の森から、尊彼陀たるかたと言う男が近づいて来るのに、お気づきになりました。この尊彼陀と言う男は、極楽浄土へと渡る為に善行の限りを尽くした僧侶でございました。しかし、その彼もたった一度だけ過ちを犯したことがございました。と申しますのは、ある時尊彼陀が読経をしておりますと、小さな蜘蛛が一匹、高い天井から糸を垂らして、尊彼陀の手の上に降りました。始めはむず痒さに耐えていた尊彼陀も、その時は弟子の不注意に気が昂ぶっていたこともあるのでございましょう、つい怒りにまかせてひと打ちに蜘蛛を殺してしまったのでございます。
 お釈迦様は、近づいて来る尊彼陀をご覧になりながら、尊彼陀が無闇に蜘蛛を殺したことをお思い出しになりました。そして、今にも極楽へと突き出しそうに、するすると延びる蜘蛛の糸に視線をお移しになられました。

     二

 お釈迦様と尊彼陀は蓮池のふちに並びながら、色々の事をお話しになっておりました。すると、色鮮やかな蓮が浮かぶ水面みなもから、一本の銀糸が延びて参りました。
「これは一体何でございましょう?」
 尊彼陀は不思議そうにお釈迦様に訊きました。
 お釈迦様は少し哀しそうなお顔をなさって、水面すいめんに生えた蜘蛛の糸をご覧になりました。
「あなたはこれがわかりませんか?」
 尊彼陀は、そうおっしゃられて美しい銀糸を見つめましたが、一向に何かはわかりません。
「これは蜘蛛の糸です」
「蜘蛛の糸……でございますか?」
「ええ、蜘蛛の糸です」
「何故、蜘蛛の糸がこのような所に?」
 お釈迦様はそれには何もお答えにならず、やはり哀しそうなお顔をなさりながら、ゆっくりと池の周りをお歩きになり始めました。

     三

 その後、蜘蛛の糸は一尺ばかり間を置いて、尊彼陀の行く先々に付いてまわりました。修行をする宮殿や住まいにも糸は突き出て、尊彼陀を離れないのでございます。
 ある時尊彼陀は蓮池のほとりに、いつものようにお佇みになっているお釈迦様に話しかけました。
「この蜘蛛の糸は何故私の後を追いかけて来るのでございましょうか?」
 お釈迦様は尊彼陀が過去に犯した罪を全く忘れていることをお嘆きになりました。
「あなたはその理由を知っているはずなのですよ」
「……私が、ですか…?」
 尊彼陀はそう呟きながら、何気なく蜘蛛の糸に手を延ばしました。
 その時でございます。尊彼陀の手が蜘蛛の糸に触れたかと思うと、糸は恐ろしいまでの力で蓮池の中に尊彼陀を引きずり込むのでございます。地獄では蜘蛛が、尊彼陀を捉えた銀糸を凄まじい速さで引き寄せております。尊彼陀は落ちるよりも速い速度で、みるみる赤々と燃え盛る地獄の底へと堕ちて行きました。
 あとにはただ、尊彼陀の残した蓮池の波紋がうっすらと水面に映っているばかりでございます。

     四

 お釈迦様は極楽の蓮池のほとりにお佇みになって、水面が静かになるまで尊彼陀の様子をご覧になっていらっしゃいましたが、やがて哀しそうなお顔をなさりながら、池のふちからそっとお離れになられました。
 尊彼陀の積んだ善行は、極楽という安らかな世界へ行こうという、信心の欠けた利己心によって為されたものであり、蜘蛛を殺したことに呵責の念をも抱かなかったのでございましょう。
 誰もいない蓮池には、さざ波ひとつたたず蓮がゆらゆらと静かに揺れ、その鮮やかな蓮の花からは馨しく清らかな香りが絶え間なく漂っております。辺りには心地良い音楽も奏でられているのでございます。
 極楽はいつもと変わりなく、穏やかな時が流れております。

2012年1月22日日曜日

「タクシー」

	
 行き先を告げると、人の好さそうな運転手はバックミラー越しに、僕に微笑みかけた。
「しっかし最近は凄い暑さですね。」
 ここ数日は、陽が落ちても容易に気温は下がらず、一日中暑苦しい日が続いていた。
 徐々に速度を増して後ろに流れて行く夜の明かりを眺めながら、僕は「ええ」と無愛想に頷いた。
「こうも暑いと涼しくなるような話のひとつも聞きたくなりませんか?」
 運転手は僅かに横顔を見せ、意味ありげに口元に薄笑いを浮かべた。
 車の中は十分に空調が効いていて、外の暑さにあてられていた僕は、暑いどころか肌寒ささえ感じていた。そしてまた、疲れていて、静かに車に揺られていたい気分だった。が、長い車中を思い、適当に調子を合わせて話を聞くことにした。そこには多少の好奇心も働いていないこともなかった。
「――涼しくなるような、と言うと乗せた客が急にいなくなったとか、その類の話ですか?」
「ええ、ええ。そういった類の話です。」
 この手の話を客に好んで話すらしい運転手は、嬉しそうな声で「そういった類の話」に力を入れ、何度も顎を頷かせた。
「お客さん、そういう話大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。」
「そいつは良かった。たまに酷く嫌がるお客さんがいましてね。この間なんか大変で……」
 と、若いカップルの女性が怖がってしまい、男性が凄い剣幕で怒ったことを苦笑しながら話した。
「『金なんか払えるか!』とかまで言われてね。あの時は弱りましたよ。」
「…それは大変でしたね……。――それで、涼しくなるような話というのは?」
 別段同情する気持ちもないまま、僕は話の矛先を好奇心の向くに任せた。
「そうそう、私は愚痴をこぼそうとしてたんじゃないんだ。」
 不快をひと欠けらも見せずに、運転手は白髪の少し混じった頭を額から後頭部にかけて撫でた。
「これは私の同僚から聞いた話なんですがね……」
 と、急に真剣味を帯びた声色で、その運転手はおもむろに話しだした。
     ――――――――――
 その同僚が休みの日に――そうですね…、仮に近藤としますか――休日に近藤がタクシーに乗ったんですよ。丁度このぐらいの終電も途切れた時間にね。この近藤という男は、他人の運転する車に乗るのはあまり好きではなくて――まあ、他人の運転が信用できないんでしょうね。それだけ、彼の運転は安全そのものでしたが。
 しかし、その時は近藤もやむなくタクシーをひろって家に帰ることにしたんです。近藤は、同業者ということもあって、どこのタクシー会社か車体を見たんですが、白地に黄色いライン、そして噴水か何かのマークがはいった、それは彼の知らない会社のものだった。個人タクシーでもない。「こんなタクシー会社あったか?」と不思議に思いながらも、まあ、そのタクシーに乗ったわけですよ。
 車が走りだしてから、運転手は彼に気軽に声をかけました。近藤は運転手と他愛ない世間話を交わしながらも、運転手の運転に注意を払っていました。でも、それも最初のうちだけで、すぐに運転手の腕に安心して、ゆったりとした気分でシートにもたれて話していたんです。
 その運転手が近藤と同年配だったということもあるんでしょう。次第に話が盛り上がって、やれ政治がどうだとか、やれ最近の若い奴らはどうだとか、そういう話を始めてね。他人が運転する車に乗ってるんだってことも忘れたみたいに熱く話し合っていたんですが……、近藤が、ふと気がつくともう家に着いていてもいいような時間をとっくに過ぎている。これはどうしたことかと窓の外を見ると、見慣れない夜の町並みがどんどん通り過ぎて行ってるんです。
 近藤はそりゃあ、タクシーの運転手をやってるもんですから、その辺りの道という道は知り過ぎるほどに知ってますから、驚いてね。
「どこを走ってるんだ」って努めて冷静な調子で運転手に訊いたんですが、運転手は「大丈夫、もうすぐ着きますから」と答えるだけで、どの辺りか何も言わない。そういう問答を何度か繰り返しているうちにも、車は走り続けて、いつの間にか街灯も何もない細い道を車は走っていた。
 さすがに近藤もいよいよ不安になりましてね、運転手に「止めろ」と言ったんです。でも、運転手はヘッドライトだけが照らす細い道を真直に進んで行く。
「止めろと言ってるんだ!」
 近藤は運転手の肩に手を掛け、激しく揺すぶりました。しかし、運転手は顔色ひとつ変えずにハンドルを握り続けています。
 細いなりにも道だった道が、その頃にはもうなくなっていました。近藤には、どこを走っているのか、どんな場所を走っているのかもわからなくなりました。ヘッドライトには地面すらも映らない。ただ、無限に広がる闇の中を走っているようでした。いや、車が走っているのか停止しているのかさえ、既に判然としなくなっていました。
「大丈夫、もうすぐ着きますから。」
 と運転手は口元に薄笑いを浮かべます。
 近藤は半ば吐き捨てるように訊きました。
「俺をどこに連れて行くつもりだ?」
「この世ではない場所ですよ。」
 運転手はやはり口元に薄笑いを浮かべて言いました。
「あなたのように『世間』というものにひどく疲れている人を運ぶのが、私の仕事でしてね。あなたの潜在的な願望を叶えてあげるのです、煩わしい『世間』とは無縁の遥か遠い世界へと、ね……
 ――何、これから行く所は、この不可解で、理不尽で、下等なこの世界より、だいぶましか知れません……」
 運転手の口元には、いつしか薄笑いと共に、牙のような鋭い犬歯が光っていました…………
     ――――――――――
「それきり近藤という男は行方不明になり、彼の姿を見た人はいません。」
 運転手の口調が親しげな様子から、だんだんと慇懃な調子になっていることに僕は気がついた。そしてまた、この話の矛盾を感じた。
「その近藤という人が行方不明になったのなら、なぜ、あなたが――」
 そこまで口に出して僕は気がついた。この話は客を怖がらせる、運転手の創り話なのだ、と。
 が、しかし同時に、車の窓の外は無辺の闇であることにも気がついた。目を凝らしても闇の他には何も見えなかった。
「近藤を乗せた、その運転手というのが私でしてね。」
 運転手は口元に薄笑いを浮かべ、牙のように鋭い犬歯を、薄暗い明かりの中に光らせた。
 僕は闇を突き進む――進んでいるのか、止まっているのか、後退しているのか、わからないタクシーの後部座席にじっと座り、黙然と果てしない闇に眼を注いでいた。
 僕は運転手に何を問いただす気力もないまま、静かに到着の時を待った。

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