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2011年12月29日木曜日

「老犬と老人」

	
 椅子の上で空咳をすると、犬が私の足元に歩み寄り、丸くなった。
 どうやら、もう長くはないらしい。犬というのは人間なんかよりずっと生き死にを感じとる本能が敏感なのかも知れない。私が死んだらこの犬はどうするのだろうか。どうなる、と言った方が良いのだろうか。
 この犬は、まだ幼いうちに友人から預かったものだ。子供の時からどこか老成したような所のある、気性の穏やかな犬だった。既に老いていた私にはちょうど良い同居人だった。散歩こそ老人の脚には速すぎたが、普段家の中に居る分には、幼い頃から共に歳を重ねてきた友人のような存在だった。
 私も犬も老いた。この犬と暮らし始めて十年以上の歳月が過ぎた。どうやら先立つのは私の方が先らしいが、私の死後、生きていけるのだろうか。
 この世に生まれ出て以来、人の手に依って育ってきたこの犬が、――この老犬が、今さら野良犬になどなれるのだろうか。
 私の気持ちを知ってか知らずか、犬は相変わらず私の足元に目を閉じ、丸くうずくまっている。時折、思い出したように尻尾を静かに振り、そしてまた動きを止める。
 手を触れて撫でたい気もするが、体は意志に反して動こうとしない。ただ、重く鈍い歯車が動くように、どんよりと頭が微かに機能するばかりだ。あるいは、既に脳の神経から死滅していってるのかも知れない。
 私はこうして緩やかに死んでいく中に、この犬の夕飯を出してやることもできない。
 犬に先立たれて嘆くのは無論のことだが、犬を残して死ぬというのも、犬にすまないような気がする。
 私が弱る前に、どこかに預けた方が良かったのかも知れないが、この犬に看取られて死にたいという気持ちがないわけでもない。
 つくづく人とは利己的な生き物だ。いや、私がひどく利己的なだけに過ぎないか……。
 自分の心を慰める為に、生き物の一生を自分に追従させる。『飼う』という、高圧的な見方でペットを見下ろしている。
 それほど高等な生き物でもないだろう、人間というやつは。見回してみれば犬より下等な人間がどれだけいるか知れん。どこまでも愚かな種族だ……
 ……まあ、良い。もう、そんなことはどうでも良い…。ただ、この犬がどうなるのか気掛かりだ……
 どこかの忠犬よろしく、私の死んだ後にも、このまま足元に居続けられても困る。お前の糞尿で、死体の私が汚れてしまってはかなわん。――第一、私はお前の主人でも飼い主でもない。私はお前のことを、私を誰よりも理解してくれている良き友だと思っている。お前もまた、私のことをそう思っていて欲しい。友人には忠義など要らないものだ。死んだ友にとらわれることはない。ただ、ほんの少し悲しんでくれれば良い。そして時々、生きていた頃のことを思い出してくれれば良い。何、感傷的になる必要はない。お前と私が共に過ごした時間は楽しかったはずだ。少なくとも、そうであった時が多かったはずだ。その時間をもう共有することはできないが、一人というのも悪くないものだ。ゆっくりと自分の時間を過ごすことができる。生まれてからずっと誰かと一緒だったお前は寂しいと思うかも知れないが、慣れてしまえば気楽なものだ。人間の気まぐれになど付き合わなくて済む。誰にも合わせず自分のペースで生きれば良い。お前も老いてやっと自由を手に入れることができるな。
 ……もう、目も開かなくなってきた。だが、お前の姿は目で見なくとも、しっかりと思い描くことができる。お前も私同様、老けたな……。大分無理をさせてしまったようだ。私はもう逝くが、お前はゆっくりと時間をかけて来るが良い。…もっとも、私は天国で、お前は地獄に行ってしまうかも知れないがな。犬畜生などと言うだろう?……まあ、お前が地獄なら私も地獄だろう。気長に待っているとしよう。牛頭も馬頭も犬が好きなら良いが……
 …………。
 ……どうやら頭が錆びついてきたようだ。いよいよ、訣れの時が来たらしい。何だかとても気分が安らかだ……。不思議と後悔らしい後悔はない。若い頃は後悔ばかりしていたのにな……。お前のお陰かも知れない。……人生の中で……、年老いてからのお前との時間が一番楽しかったのかも知れない。……お前も、私にこんなに喜んでもらえるなんて……幸せ者だな……。
 楽しかったぞ……
 …じゃあな……
 …………
 ………
 ……
 …

2011年12月15日木曜日

「生――贖罪」

	
 心臓に楔を打ち込まれ、
 眉間を真直に割られ、
 片目を抉られ、
 そうして残る目にそれを見せられ、
 脳髄の中心を射られ、
 背に紅い十字を刻まれ、
 群集は湧き返る。
 鈍くなった頭は、隻眼で波打つ群れを認め、遠くにその声を聞いている。そして、敏感に嗤い声を聞いている。嘲声を聞いている。だが、頭脳は理解しようとしない。聞こえるがままに聞いている。心に反論すら起こることなく、群れの地平線を探している。
 ふと――、歓声の中に鳥の声を聞いた。垂れた重い頭を持ち上げると、弧を描いて飛ぶ鳥が一羽。罵声がする。
 喉が横一文字に切られ、
 片耳が殺がれ、
 燃える鉄に腹を灼かれ、
 群集は再び湧き返る。
 眼球の奥底が微かに光り、
 首と胴とが切断され、
 三度群集は湧き返る。一際大きな歓声。歓声は歓声を大きくする。
 胴を離れた頭は、――そのひとつきりの眼は、空を飛ぶ鳥をみつめている。
 頭部が巨大なハンマーに潰され、
 その音も歓声の為に聞こえない。

2011年12月1日木曜日

「通り雨」

	
 僕はこっそりと、彼女の姿を目で追っていた。小柄で可愛らしい感じのする人だった。週に一二度やって来て、文庫本を買っていくことが多かった。
「カバーはおかけしますか?」
「はい、お願いします。」
 恥ずかしそうな微笑を見せて彼女は言うのだった。その会話とも言えぬ短い応答が、僕にはただ嬉しかった。
 今日は何も買わないのだろうか。彼女は出入り口に向かって歩きだした。が、彼女はふと、窓の外を見て足を止めた。
 外は土砂降りだった。曇りがちな空ではあったが、さっきまでは雨の降る気配はなかった。それがいつの間にか酷い土砂降りになっていた。
 彼女は踵を返すと、女性誌などを気のないように繰りだした。傘を持ってきていないのだろう。
 僕は、雨が止まないよう願った。傘を貸そう。僕も今日は傘を持ってきていなかった。が、店の倉庫には誰のものとも知れぬ傘がある。誰のか僕の知ったことじゃない。傘を貸そう。――そんなことを思いながら、レジから離れようとすると、いつしか雨がぴたりと止んでいることに気がついた。のみならず、太陽の光さえ、きらきらと雨に濡れた街を光らせていた。
 彼女も雨が止んだことに気がついた。読んでいた雑誌を元の位置に戻すと、彼女は店を出て行った。
 僕は悄然と彼女の後ろ姿をみつめていた。

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