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2011年10月31日月曜日

「疾駆する男」

	
 男は何も見たくなかったので、目を潰した。何も見えなくなった。男は何も言いたくなかったので、口を糸で塞いだ。何も言えなくなった。男は何も聞きたくなかったので、耳を殺ぎ鼓膜を破った。何も聞こえなくなった。
 男は静寂の闇の中を走りだした。どこへ走っているかなど、無論、わからなかった。何かにぶつかり、激痛が全身にはしり、倒れた。男はすぐに起き上がり、また走りだした。そうして何度も倒れては起き上がった。痛みは増し、疲労は募っていった。それでも男は走り続けた。ただ、全力で走った。
 男は終に疲れ果て、起き上がれなくなった。男は仰向けになった。それきりもう動けなかった。指先さえも、動かす気力は無くなっていた。
 男は草の匂いを感じた。それには土の匂いも混ざっているようだった。微かに頬を撫でるのは草の葉であろうか。涼しい風が全身を抜けて行く。
 男は今、草原の中に寝転ぶ、彼自身を想像していた。黄金の陽の光が存分に降りそそぐ草原だった。深緑の草が風に揺れ、葉擦れの音がさわさわと絶えずしている。透きとおった風が清らかに流れていく。空は青く輝き、雲は真白く浮かんでいる。広大な大地が体をしっかりと受けとめている。……
 ――ふと、男の頬に温かなものが触れた。滑らかな、心地好い感触だった。男の頭がそっと持ち上げられた。それは、力弱い者がやっとのことで行っているようだった。が、その動きは慎重を極めていた。男は抗わなかった。もとより抗う力など残っていなかった。男の頭が何かやわらかいものの上に乗せられた。男の額の髪が、やさしく払われた。そうして、ゆっくりと頭を撫でられていた。男は幸福だった。

 男は今、この世で最も残酷な状況にある自分を想像した。
 それでも男は、幸福だった。

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