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2011年5月22日日曜日

「灰神楽」

	
 波が退くように、静かに眠りから覚めた。部屋の中は薄暗く、夜が明けかかっているのか、日が暮れかかっているのか、あるいはただ、曇り日なのか、判然としなかった。いつから眠り、どのぐらい眠ったのか、時間の感覚も失われていた。時計を見る気力も無かった。
 ほとんど無意識に煙草を啣え、ほとんど無自覚に火をともす。体に沁みついた悪癖だった。紫煙に包まれながら、鈍く重い頭は思考することを放擲している。ただ、漠とした負のイメージが、胸の辺りを重苦しく締めつける。
 ――雨。
 微かな雨音がしているようだった。目を閉じ耳を澄ますと、絶えなく降り落ちる柔らかな雨粒一つひとつを感ずるような気がした。今でこそ雨に安らかさを覚えることもできるようになった。
 ――が、ある一時期、雨が降ると終日部屋に閉籠もり、自殺ばかり考えていた。その頃、天候によって気分が大きく左右された。字義どおり「お天気屋」だった。鬱々とした毎日の中でじりじりと追い詰められ、何をするのも面倒で苦しかった。そんな最中でも、好く晴れた日は何か救われた気がして、陽の光を求め、あてもなく歩いた。少しだけ、不断の苦悩と焦燥を忘れ、忘我の境をかいまみたりした。しかし、夕暮れの赤い日射しを見ると不意に悲しくなり、今にも泣きだしそうな気持ちで急ぎ家へと帰り部屋の明かりをつけた。そして電灯の下で、自らの身の先を思った。
 雨の日は神の悪意を感じた。雨の日が続くと、神を信じずに――しかし神を呪った。雨音を聞きながら薄暗い部屋で天井を睨んでいた。息をするのも辛く、ひと呼吸毎に弱っていくようだった。死ぬことばかり考えていた。苦しみから逃れるには死ぬより方法が無いと考えていた。明日死のう、明日死のう、そう思いながら、さわやかな朝日が部屋に射し込むと、もう少しだけ生きてみよう、せめて今日一日だけでも……。そんなふうに死に時を少しずつ延ばして危うく生存らえていた。死ぬのが怖かった。死に飛び入るだけの情熱も失っていた。
 そんな人間がよく今日の今まで生きてきたものだ。今はあの頃のように、毎日自殺することばかり考えてはいない。――ただ時々、ふっ――と自殺を考える。それでも、まだ、生きている。……
 いつの間にか手にした煙草の灰が、だいぶ長くなっていた。一度も落としていなかった灰は、ゆるやかな弧を描いて危うく垂れていた。手を動かさないようにして、火先をじっとみつめる。音も無く、静かにひとすじの煙が真直に立ちのぼる。やがて半分ほども灰になったところで、力尽きたように灰は折れた。そしてその時初めて気がついた。灰が落ちたのは灰皿ではなく、屑籠の中だということを。
 自分は屑籠を抱えるようにして、煙草を喫っていた。プラスチックの安物の、小ぶりな屑籠だった。それでも構わずに煙草をそのまま喫い続け、灰をそのまま屑籠に落とした。
 雨は相変わらず寂しく降っていた。
 肺の隅々を煙で満たし、ゆっくりと吐き出す。煙草は徐々に――しかし確実に、短くなっていく。銘柄の刻印も燃え、煙草を挟む指を焦がそうと焔は近づいてくる。
 ――ヂリヂリ。そんなフィルターを灼く小さな音をさせながら、煙草は煙を吐かなくなった。妙な焦げ臭さが鼻についた。気怠い眠気が擡げてきた。
 喫い殻を屑籠に捨て、再び毛布に潜り込んだ。薄暗い部屋の天井をぼんやりと眺め、雨音に耳を澄ました。弱々しい雨だが、それ以上弱くも強くもならないようだった。細かな律動を遠くに感じながらそっと目を閉じ、再び浅い眠りへと曳かれていった。

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