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2011年6月22日水曜日

「殺人罪」

	
 彼は、夕暮れの人気のない川辺を歩いていた。川辺をこんなふうに当てもなくぼんやりと歩くことは久しぶりだった。
 川の流れを何気なく見ていると、上流から子供が流されて来た。溺れている。声も出さずに溺れている。川は、さして大きな川ではない。流れもそれほど急ではない。少しでも泳ぎを知る者ならば子供を助けるのも充分可能だろう。が、彼は全く泳げなかった。
 弱ったな、と彼は思った。しかし、彼は彼自身が泳げないことを、弱ったと思ったのではなかった。久しぶりに来た川辺を歩いていたこんな時に、子供が溺れている場面に出交わした不運を、弱ったと感じたのだった。
 辺りを見廻すが、他に人は居ないようだった。助けを呼びに行っている間に子供は溺れ死んでしまうかも知れない。だが、このまま通り過ぎては、彼の心の中に終生――いや、少なくとも当分の間は――重苦しい闇雲が漂うだろう。それに、他に人は居ないように見えるが、どこに人の眼があるのかわかったものではない。彼の行動を監視している――いわば世間の眼が、彼を突き刺す。
 泳げぬ彼は、川へと跳び込んだ。彼は溺れた。当然のことだった。それでも彼は、溺れながらも何とか子供に近づいた。彼が助からないまでも、子供だけは助けようと思った。彼も子供も助かったならば、美談として世間に迎えられるであろう。また、彼が死んで子供が助かれば、それも美談であろう。そうしてまた、彼と子供が死んでしまっても、それはやはり美談であろう。が、彼が助かり子供だけ死ねば、それは醜聞かも知れない。彼は自分の命など、川に跳び込んだ時から諦めていた。
 彼はどうにか子供の体に触れることができた。が、溺れる者同士、互いを更に溺れさせるようにして、彼と子供は川の中へ没していった。
 翌日、子供の死体がみつかった。彼の死体は三日後になって、ようやく別の場所で発見された。二人の死体は全く聯関のないものとして処理された。誰も、彼らの事件を目撃した者はなかった。彼は、世間に殺された。

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