男は病院のベッドの上で、静かに目を覚ました。百年の眠りから覚めたように、静かな目覚めだった。誰か男の左手を握る者があった。それは付き添いの女の手だった。男が目覚めた為に、知らずに握る手に力が加わっていた。 男はそっと女の顔を見上げた。不眠の為か、涙の為か、目が赤く充血していた。女は眼が合うと、無理に笑って見せた。 「どのくらい寝ていた?」 男は天上に視線を移しながら訊いた。 「まる一日と少し。」 女は短く応えた。声が微かに震えていた。 「……夢を……、――夢をみたんだ。」 天上を向いたまま、男の目はゆっくりと閉じられ、完全に閉じきられる寸前でその動きは止まった。 「子供の頃の夢だ。まだ世界の理を知らない、永遠を信じるとも意識せずに信じていた、幼い頃の夢だ。」 その夢が今、眼前にひらけているような眼つきをして、男は続けた。 「純粋な歓びや哀しみが繰り返され、明日 を考えない日々が果てることなく続いていく……。一心に泣き、素直に笑っていた。…… やがて自分も大人になるとも知らずに、甘美な日常が延々と続く……。鎖じた環の中を巡るように、黄金の車輪がやわらかな光をふりまき、うつくしい調べを奏でる。……」 男の眼がうっとりと恍惚に満ち、頬には微笑さえ浮かぶ。女は声も無く涙を流しだした。 「――だけど、それも永遠には続かない。車輪は速度を緩め、徐々に歪み、朽ちていく。車輪は動きを止め、永遠は崩れ去る……」 男の目が完全に閉じられた。女は両の手で男の左手を、強く、握り締めた。 「君には本当に迷惑をかけたね。」 女は頭を左右に振った。声はでなかった。髪が乱れるほどに、頭を振った。 しかし、目を閉じた男には見えなかった。
2011年2月12日土曜日
「夢に住む人」
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