「綺麗ですね。」 思いがけず近くで声がした。わたしは振り返って声の方を見た。細身の男が立っていた。やわらかな風に男の前髪が揺れた。 「えっ…そんな……」 「いえ、湖ですよ。湖がきれいだ。」 確かに、男はわたしの方ではなく、湖を見ていた。そのまま数歩あるいて、わたしの横に並んだ。 わたしは、それでなくても羞恥に紅く染まっていた頬を別の羞恥で紅くし、俯いた。 「――冗談です。」 男は笑い声に言った。 わたしは何も言い返せず、そっと男の横顔を窺った。男はやはり湖を見ていた。が、その頬にはうっすらと羞ずかしそうな笑顔が浮かんでいた。 「あなたのように綺麗な人に会ったのは初めてです。」 表情からは笑いが消え――それでもやはり、男はわたしではなく湖を見ていた。 「――当然です。あなたに会ったのは初めてだから、当然です。『あなたのように綺麗な人』は、あなたしか居ませんから。言葉の修辞につりこまれてはいけません。」 男の顔には再び微笑が浮かんでいた。 わたしはどうするべきか迷った。が、何をどうするべきなのかは、わたし自身判然としなかった。 不快――というより、当惑だった。 急に、男はわたしの方を見て、真直に両の瞳をわたしに向けた。わたしが見返しても、男の視線がぶれることはなかった。寧ろ、わたしが彼の眼から視線を外せなくなっていた。穏やかに沈黙した眼だった。 「でも――、湖もきれいだとは思いませんか?」 彼はそう言うと、あっさりと視線を湖に移した。 湖面は太陽の光を反射して、僅かな波に静かにきらめいていた。きれいだった。 わたしは黙ったまま、湖を眺めた。そうして、彼に何か言いたい衝動を感じた。 「……もしかして…あなたは――バカですか?」 怒気のない、落ち着いた声でわたしは言った。 「よくわかりましたね。」 彼は笑った。わたしも一緒になって笑っていた。湖がきらきらと光りながら揺らいでいた。
2011年2月19日土曜日
「ある晴れた日に」
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿