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2011年2月19日土曜日

「ある晴れた日に」

	
「綺麗ですね。」
 思いがけず近くで声がした。わたしは振り返って声の方を見た。細身の男が立っていた。やわらかな風に男の前髪が揺れた。
「えっ…そんな……」
「いえ、湖ですよ。湖がきれいだ。」
 確かに、男はわたしの方ではなく、湖を見ていた。そのまま数歩あるいて、わたしの横に並んだ。
 わたしは、それでなくても羞恥に紅く染まっていた頬を別の羞恥で紅くし、俯いた。
「――冗談です。」
 男は笑い声に言った。
 わたしは何も言い返せず、そっと男の横顔を窺った。男はやはり湖を見ていた。が、その頬にはうっすらと羞ずかしそうな笑顔が浮かんでいた。
「あなたのように綺麗な人に会ったのは初めてです。」
 表情からは笑いが消え――それでもやはり、男はわたしではなく湖を見ていた。
「――当然です。あなたに会ったのは初めてだから、当然です。『あなたのように綺麗な人』は、あなたしか居ませんから。言葉の修辞につりこまれてはいけません。」
 男の顔には再び微笑が浮かんでいた。
 わたしはどうするべきか迷った。が、何をどうするべきなのかは、わたし自身判然としなかった。
 不快――というより、当惑だった。
 急に、男はわたしの方を見て、真直に両の瞳をわたしに向けた。わたしが見返しても、男の視線がぶれることはなかった。寧ろ、わたしが彼の眼から視線を外せなくなっていた。穏やかに沈黙した眼だった。
「でも――、湖もきれいだとは思いませんか?」
 彼はそう言うと、あっさりと視線を湖に移した。
 湖面は太陽の光を反射して、僅かな波に静かにきらめいていた。きれいだった。
 わたしは黙ったまま、湖を眺めた。そうして、彼に何か言いたい衝動を感じた。
「……もしかして…あなたは――バカですか?」
 怒気のない、落ち着いた声でわたしは言った。
「よくわかりましたね。」
 彼は笑った。わたしも一緒になって笑っていた。湖がきらきらと光りながら揺らいでいた。

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